詩的日記

時の流れの恐ろしさ〜時間の経過は人を変える

時の流れは恐ろしい。

渦中にある時には気が付かないが、間違いなくそれは押し寄せている。

今日という一日、昨日という一日、一日一日はあっという間に現れては消え、

自分を取り巻く環境に何の変化ももたらせていないかのように見える。

しかしその正体ときたらどうだ。

一日ぐらい、ほんの一日ぐらいという油断に乗じて時の流れは確実に浸透し、

いつしか決定的な壁を築き上げている。

この世に奇跡や永遠という超越的な概念を体現しているものがあるとすれば、

それは時の流れのことではないだろうか。

そうだ、時の流れは奇跡だ。人を超え、自然を超え、あらゆるものに影響を及ぼす。

世界を牛耳るこの絶対的な権力者は、実体を見せないだけにいよいよ無敵の観がある。

形なくして無の極地にあり、声も手足も持たずに現実の世界を一変させる力を持つ存在だ。

一方で、時の流れは万能の薬とも呼ばれる。

流れる時が全てを変えてしまうというが、何もそれは悪い方向にだけではない。

主に良い方向に、時として悪い方向に、

そして大部分は良いのか悪いのか分からない方向に姿を変えてゆく。

あなた自身の深い心の傷を思い出してみるといい。

どんな悪夢でも時間さえ経ってしまえば、忌まわしい記憶は薄められていることだろう。

心底に刻み込まれた傷を癒すのに、時の流れ以上の薬はないのだ。

平和な毎日の静々とした時の流れが穏やかだと言うのは嘘だ。

あいつは鬼だ。あいつは破壊王だ。

あいつには容赦がない。大胆どころか、徹底的に世界をかき回す。

一日一日の、晴れやかで愛想の良い顔立ちに騙されてはいけない。

数ヶ月が過ぎれば環境が違う。数年が重なれば世界が変わる。

数十年が積もれば別の人生だ。

緩やかに運ばれているかのような仕事の裏で、ことは非情に行われている。

あいつは、そういう奴だ。

時の流れだけは、何者も否定することができない。

どんな猛者でも、どれほどの偉人であろうとも、

自分が時の流れに弄ばれながら生きることに甘んじてきた。

例え今、己がその脅威に振り回されていると気が付いていても、

見て見ぬ振りをし、時の流れの逆鱗に触れないように音を静めるしかない。

時の流れに対する人間の抵抗とは、所詮その程度なのだ。

平凡を装う非凡な能力。壁は薄いように見えて、どうしようもなく厚い。

誰もが跪く、時の流れの恐ろしさに――。


――いつもの音がする。

眠りの意識の中で聞こえてくる遠い水の音。

耳当たりも心地良い、水の安定した音楽。

真子が洗面所で身支度をしている音だ。私は毎朝これで目を覚ます。

今朝も真子より先に起きられなかった。

たまには私の方が先に起きよう、と毎晩眠る前には思うのだが、

どうも朝は苦手で先に起きた例がない。

水の音を聞きながら私はしばらくベッドの温もりに甘える。

音が止まるとしぶしぶ起き上がり、気だるくリビングキッチンに向う。

ガスコンロでお湯を沸かし始め、顔を洗いに行く。

「おはよー」

寝起きの冴えない声を出して洗面所に入ってゆくと真子が振り返る。

「おはよぅ~」

朝の一番からこの人はこの人だ。

私とは対照的に、すがすがしい表情でにっこりと微笑んでくれる。

真子と入れ違いに洗面所を使い、リビングキッチンでパンと紅茶の朝食を取る。

毎朝の日課とは不思議なもので、気が付くとそれをしている。

今朝も私はだらだらと紅茶を飲みつつ朝刊を読む振りをして、

寝室の鏡の前で化粧をする真子を横から眺め、会話をしていた。

あまり広くない2LKのマンションだから、寝室のドアが開いていれば

鏡の前に座る真子がリビングキッチンのテーブルからちょうど見える。

こうして毎朝、リビングキッチンと寝室で会話をするのが日課になっている。

これは秘密だが、私にとって会話は目的ではない。

新聞を読むことなんてどうでもいい。私は真子の美しさに見とれているだけなのだ。

私の妻は万人に一人の女性だ。外見は抜群の美人で、スタイルがいい。

整った目鼻立ち、鼻から頬の線に溢れるなんとも言えぬ気品。

華やかさがあり、神々しさがある美しさで、

しかも冷たい感じではなく、温かさと子供っぽい親しみがある。

彼女に見慣れてしまったら、世の他の女性達から美を感じることに鈍くなってしまった。

決定的な美が真子の髪にある。

その柔らかさは、オムレツの中身のフワフワに仕上げた卵の心地だ。

真っ直ぐに整ったロングヘアは、繊細な白糸が集まって流れる小滝の美しさに似て、

彼女の真摯さを表している。

真子の髪は、彼女が持つ美しさの全てをそこに集約したかのようで、

子供特有の艶やかな髪にも勝る輝きを放っている。

夫として、恋人の男性として、外見以上に愛してやまないのがその性格だ。

真子は、まるで私だけが世界であるかのように私を構ってくれる。

誰にとっても人生のパートナーとは心の大きな割合を占める存在であることに

違いはないと思うが、だからと言ってそれのみで人生が完結するものではない。

他の様々な物事に囲まれて生きる中で、最も多い時間を費やすことになるので

最も心を傾けるようになるのだと思う。

しかし私の妻は、何をしていても私とのことに当てはめて考える性格だということが、

毎日共に暮らす生活の中でひしひしと伝わってくる。

彼女にとっての世界とは、私とのことが全てらしいのだ。

私にとって都合が良いといっているわけではない。

そういう心を持った人と一生を共にできることが何よりの幸せだと言っているのだ。

真子の才能には目をみはるものがある。

料理や買い物、遊ぶことにかけてまで彼女は一番お得なものを選ぶセンスに長けている。

夫としての贔屓目を抜きにしても、妻の才能が平均を遥かに上回っているのは間違いなく、

本気で何かに打ち込めば必ずモノにできるはずなのだが、

何故かその情熱は夫である私だけに注がれている。

こんなに幸せなことがあるだろうか。

私にはもったいないほどの女性が妻となり、一生側にいることを誓ってくれているのだ。

その喜びが分かっているから、私も妻との生活こそが己の生き甲斐だと、

真子こそが人生で唯一無二の宝物だと心から思っている。

私にとり、真子と時間を共有することがかけがえのない人生の喜びだ。

――そうこう考えている間に、化粧を終えた真子が鏡の前を離れた。

あぁ、朝のショータイムはもう終わりだ。

やれやれ、と私もスーツに着替え、慌ただしく身支度を整える。

このスーツやネクタイも一緒にデパートへ買いに行って、

真子に見立ててもらったものばかりだ。

会社のみんなによく服のセンスを誉められるが、

別に私にセンスがあるわけではなく、全部真子のお陰だ。

細身で格好の良いスーツに身を包むと、会社に行くのも少しは楽しくなる。

真子がいるから、何もかもが喜びに感じられる。

「じゃ、今日も八時ぐらいになると思う。行ってきます」

「水曜だから私もそのくらい。それじゃぁね」

水曜日は真子が通っているクラシックバレエのレッスンがある日だ。

仕事が終わってからのレッスンを彼女はもう七年近くも受けている。

「うん、それじゃぁ」

マンションを出て、いつもの道を駅まで歩く。

私は妻と二人で東京の西葛西に住んでいる。

公園が多く、街中が緑に溢れた素敵なところだ。

社宅が集まっているからだろう、都心から近い割には静かな街で、

東京の西側と比べてけばけばしくないのが気に入っている。

鞄からMDヘッドフォンステレオを取り出し、大好きなロックミュージックをかける。

駅まで十分足らずだから、音楽を聴きながらの気持ち良い運動だ。

スーパーマーケットの横を歩き、バス通りを抜け、

曲が二曲目の終わりに差しかかる頃、駅前の広場が見えてくる。

混雑を避けるために朝早く出社する気にもならないから、

乗るのは丁度ラッシュ時と重なってしまう。

ブルーラインの入った車両がはちきれんばかりの混雑ぶりだが、

大手町まで十五分間の我慢だと思えばいい。

まだ少しは空いている前方の車両に乗り、

ヘッドフォンを外して朝のお供を音楽から小説に変える。

大手町まで十五分の読書タイムだ。

自宅から職場まで一時間も二時間も電車に乗りっぱなしの

苦行に耐える人達のことを考えれば、私ははるかに恵まれている。

このぐらいで文句を言っていてはバチが当たるだろう。

私は丸の内の翻訳会社に勤めている。

恵まれた仕事で、こちらから先方に頭を下げて仕事を取ってくるのではなく、

会社の机に座っていればどこからともなく山のように仕事が舞い込んでくる。

上層部の頑張りで幾つかの大使館から指定翻訳会社としての地位をもらっているからだ。

私は周りの人達と協力しながら紙の山を物凄い速さで事務的に処理するだけだ。

日系の銀行に勤めていた父親が駐在員としてパリに赴任していた関係で、

私は子供の頃から中学生まで日本語と仏語を母国語として育った。

日本ではまだ特殊技能としてみられる仏語の能力を活かし、私はこの会社で仕事を得た。

具体的には戸籍謄本の仏訳が一番多く、あとは仏文会社推薦状や仏文雇用証明の作成、

住民票や卒業証明書・運転免許証などの仏訳をこなす。

これからフランスへ赴任しようとしている人たちが

現地で労働許可の申請をするために必要な書類だ。

サービス業の会社なので、つっけんどんな態度を取ることが許されない雰囲気にあり、

それがまた私の性に合っている。

私個人は誰にでも優しく接してあげたいと願う人間であり、

どんな会社にいてもサービス業の精神を忘れないことだろうが、

ここでは社内全体がそういう空気になっていて、

周りのみんなの冷たいあしらいを耳にしなくていいのが好きなのだ。

――この会社に入ってから、私は人生で初めて己の情熱のはけ口に

困らない生活を過ごすことができるようになった。

敵軍の真っ只中をばったばったと斬り進む万夫不当の将軍のイメージで、

毎日山積された書類の束を片付けて行く自分。

己の力を遺憾無く発揮しながら仕事をする最中の自分は充実していると思う。

学生の頃は一体何だったのだろう。

あの頃は、若くはちきれそうな己の情熱を傾ける先が全くなかった。

無心になって勉学に励み、夢中になって身体を鍛えることに明け暮れても、

自分が充実しているという実感が一向に湧いてこなかった。

不思議なもので、当時は何をしても満たされることがなかったのだ。

しかし、社会人になると同時にその不満が

ぴたりとなくなったのは更に不思議なことだと思う。

仕事でする作業自体は私の人生を豊かにしてくれるものとは言えないが、

貴重な情熱の発散の場となるのだから、なくてはならない毎日のリズムだ。

昼休みには仲の良い同僚達と食事に行く。

これがまた、なかなか楽しい時間だ。

学生時代の昼休みそのままに、ギャーギャー騒ぎながら会社の周りの店を食べ歩く。

十二時半からの昼休みだから、一番混み合う時間帯ともずれていて助かる。

日中の仕事で気を緩める余裕はないが、自分一人で仕事をしているのではなく、

信頼のおける先輩や能力のある後輩がいるので別に苦でもない。

忙しいなかでも周りとのコミュニケーションが取れている。

なかなか口には出せないが、仕事環境に恵まれたことに対しては

みんなへ日頃から深く感謝している。

定時は五時半だが、とてもその時間には片付かない。

新規の仕事を受け付けるのが五時半までといった感じで、

定時後は抱えている仕事の中で

すぐに処理しなくてはならないものを終わらせるための時間だ。

大体七時か八時には切り上げるが、基本的にそれぞれのペースで

仕事を任されているので、用事があれば定時に帰ることもできる。

また、定時にあがる人に対して上司や周りの人達から

冷たい視線が投げかけられることがない。

自分だって定時にあがることがあるのだから、

みんなお互い様だという認識がしっかり浸透しているのだ。

その辺の緩急がはっきりしているという空気は、この会社の得難い美点だと思う。

自ずと社員が生き生きしてくるからだ。


今日は七時に仕事を終わらせ、そのまま家路についた。

この仕事を担当して六年目、要領を得てベテランの域に達した私は

今日もテキパキと仕事をこなし、心地良い疲れを感じながら電車に乗った。

まだ一日にするべきことは終わっていない。

どうやら、今日は真子よりも早く家に着きそうだ。

社会人としての私の務めは終わったが、家庭人としての務めを果たすべく、

今日は真子のために夕食を作ろう。

早く帰ったほうが夕食を作るという考え方は、共に暮らす家族にとって自然なことだと思う。

ウチのような共働きの夫婦にとってはなおさらだ。

パスタなら手間も時間もかからないし、

真子の好きなカルボナーラにしておけば私も慣れているので、まず失敗はしない。

真子もきっと喜んでくれるだろう。

夫婦ならばお互いのことを尊重して、足りない分を補い合うのがいいと思う。

仕事が忙しいからという言い訳に逃げず、妻のためにできることは何でもしてみせよう。

こんな真面目なことを思うのも、本当はいつもお世話になっている

真子への罪滅ぼしというか、恩返しというか、

些細なことでもこうして私が自発的に真子のためにすると、

それだけで彼女が上機嫌のまま眠ることができるのを知っているからだ。

いつもは私のほうが色々とお世話されているから、私にできる時にはしておきたい。

家に着くとお湯を沸かして下準備をしておき、

真子が帰ってくるのを待ってパスタを茹で始めた。

彼女がシャワーを浴びて出てきたら丁度食べることができるタイミングになったので、

真子の機嫌はいよいよ良かった。

どうしてこうも真子の口は動くのだろうか。

食事の最中も、終わってからも、真子はひっきりなしに一日の出来事を私に聞かせ続ける。

バレエの友達のこと、仕事場である証券会社でのこと、

雑誌で読んだことなどを取りとめもなく私に話し続ける。

別に私が聞き上手なのではなく、真子が話し好きなのだ。

でも、そんな彼女の姿を見ていると自然と私もリラックスしてくる。

彼女に受け入れられているという意識が私の疲れた心身を満たすのだ。

真子は私に話すことでストレスを解消できると言うし、

私も真子の話を聞くことでリラックスできるのだから、これは嬉しい関係だ。

早く帰った日には、二人でソファーにもたれながら映画を見たりして過ごす。

妻と一緒の夜はなんと長く感じることだろうか。

二十四時間のうちの数時間しかないというのに、映画の後で感想を話している時や、

食事中のたわいない雑談の時、ベッドの中で交わす睦言の時など、

それはこの幸せな時間がいつ終わってしまうかなどを感じさせずにどこまでも続き、

私の心を優しくさせてくれる。

私も妻も身体は健やかで、二人の仲は言うまでもなく円満、

生活は会社の給料でやりくりできている。

そろそろ子供が欲しくなってきたし、将来のためにお金はもっと必要で、

他にも小さな問題なら幾つもあるものの、大きな問題がまるでない。

そうだ、現在のこの生活に非のつけようがないのだ。

――これが、私の三十年間生きてきた成果だ。

実際、自分でもよくやってきたと思う。

幸せな生活、これ以上求めることができない程満たされた毎日がここにある。

幸せな暮らし、満たされた毎日。その言葉に嘘はない。

しかし、私の心には秘密が宿っていた。悪魔が住み着いていた。

今日も昨日も一昨日も、ある程度の情熱を仕事で発散させ、

家庭の適度の温かさに包まれ、何ひとつ不足のない一日を送っている。

間違いなく、私は満たされている。問題なく、私は幸せを謳歌している。

だが、その幸福さとは別の所で感じてしまうどうしようもない毎日の怠惰さに、

私は目をつむることができないのだ。

最高の幸せをつかんでいるはずが、実は心に満ち足りないものを隠し続けているなどと、

どうして最愛の妻に言うことができようか。

決して、妻との生活にその因が発しているのではない。

これはあくまで私個人の問題、私だけに見える蜃気楼だとは思うが、

どうしても払拭できずにここまで生きてきた。

仕事に不満はない。

不満はないが、私のこの溢れる情熱の全てを受け止めてくれる存在ではない。

私が100%の情熱を出し切る前に、

この仕事という奴は味を失ったガムのようになって陳腐化してゆく。

私にとって仕事とは60~70%の力で片付いてしまうレベルの課題なのだ。

会社勤めをしている限り、己が望んでいないことにしろ、

仕事には人生で最も多くの時間を費やす計算になる。

しかしその仕事という奴は私の全力の情熱を受け止めることができないという哀しい事実。

私にはもっと才能がある。私にはもっと大きな意志がある。

この程度の仕事では私の全てを表現できない。

出し切れない情熱の塊を私は一体どこにぶつければいいのだ。

サラリーマンというものについて、私はひとつの結論に達していた。

己がどれだけ歯を食いしばり築いてきた仕事でも、

サラリーマンである限り絶対に代わりが利くのだ。

「○○さんにしか分からない」「○○さんでないと駄目だ」といった言葉は偽物だ。

まやかしだ。間違いなくリップサービスだ。

自分である必要性はどこにもない。その役は他の誰かでも務まってしまうものなのだ。

組織としては、大勢いる社員のたった一人がいなくなっただけで、

歯車の動きにストップがかかってしまうことは許されない。

企業で働く者にとって、自分の代わりは誰にもできない、

という考え方はそもそも有り得ないのだ。

それはそれで社会の真実であり、逆にそうでもなければ

社会は成り立たないとは分かっているが、

この私にとって代役の利くサラリーマンは何の意味もない。

自分だけの命を燃やしたい。ONLY ONEを目指したい。

理想を追求すればするほど、現実との溝は深くなってゆく。

妻との生活に足りないものなど何もない。

世の中で最も幸せな男が私だ。

しかし、そのあまりの幸福さの故に私は野性を失っているのだ。

牙を抜かれ、爪を削られてしまった虎が美しく見えないのと同様、

私も今の自分を美しいとは感じない。

今の生活はとても社会的で、微笑ましく、豊かなものだ。

平日には素敵なネクタイとブランドもののスーツで身を飾り、

心に虎を飼っていてもどんな相手にも頭を下げ、ビジネスを上手く乗り切る。

マンションでのゴミ出しのルールは必ず守る。

隣人との挨拶はいつも欠かさない。

周りの誰からも社会的な好意をもたれ、特に必要ではない物も

値札を見ずに買ってしまうぐらいの金がポケットにあり、

日々の喜びを分かち合うことができる妻がいる。

――なんだろう。この通り、私は幸せなのだ。

しかし、幸せを感じる表面の裏で私は疑問を隠すことができずにいた。

全てが平和過ぎる。私は、野性を必要としないのだろうか。

いやいや、これは逆に素晴らしく豊かな、誰もが望むはずの生活なのではなかったのか。

それが何故、満たされぬ生活だと思えてしまうのだろう。

最高の幸せを素直に喜ぶことができない己の謎は

随分昔から私の中に住み着いたまま、決して外には出さず胸に飼い殺していた。

――私は全身を存分に駆使して、暴れ切っていないのだ。

仕事や家庭という温床に浸かって安らいでいるだけの己の姿に

冷め切っている自分自身がいる。

私にしかできない奇跡を起こしたい。輝くような生の実感を掴みたい。

一体それはどこで可能なのか、それが今この生活にあるものなのか、

それとも違う所にあるものなのか。

――分からない。今なのか、違うのか。

変えるべきなのか、このままで良いものなのか。

――分からない、それが分からない。だから決断が下せない。

結論を出せぬまま胸に秘めたこの謎が、

私をペンディングの状態にさせている原因だった。

私が今まで精神をそれなりに保ってきた源としては、自分は作家だという自尊心がある。

その昔、大きな文学賞で入賞した。

今でも時間を見て習作を書き上げては応募しているが、あの時の入賞以上の成果はない。

私は明らかに過去の栄光にしがみついており、

自分で自分のことをこう思っている。

――自分は眠れる竜だ。

今はまだ眠っているが、いつかは宙を舞い、炎を吐き、

全身全霊の情熱を見せつけて世界を暴れまわってやる――と。

そんな私は、周りの物事全てを自分の踏み台だと思っていた。

人を見れば人間観察のためのサンプルと思い、

仕事はあくまで作家としての自分の経験を深めるためと、情熱発散のためだと割り切った。

表面では柔かな社会人としての仮面を付けていても、

その実、目にするもの全てをそれが作家としての自分にとってプラスなのかマイナスなのか、

その判断しか下していなかったと思う。

そんな私の心根は隠そうとしても隠せないのだろう。

周りの人たちからは、あいつはいい奴に違いないが、

心の底から打ち解け合うことができる奴ではないと思われ続けてきた。

私は他人にそういう嫌な思いをさせてしまう人間だ。

今の生活ではSTRANGERでしかない私は、彼らの人生にとって

プラスの存在なのかマイナスの存在なのかと聞かれれば、あまり自信がない。

最も、妻は唯一の例外だ。真子は私の半身であるから、

私にとってプラスかマイナスかの判断など有り得ない。

彼女に対してだけは、私は常に本当の私だ。

だが、問題は本当の私がどこにいるべきかというところにある。

本物の自分ではあるが、本物の自分をどこに落ち着けていいのかが分からない今、

真子に対しても偽物であるのだろう。

妻以外の全てとはこれからずっと長い付き合いになるという意識が薄く、

私から率先して誰かを嫌うことはないが、自分から進んで上手く付き合おうとはしていない。

誤魔化しようがない確執を私は周囲との間に作っていた。

それを分かっていながら、良い方向にもっていこうとはせず、

このままでいいと確信しているのだからタチが悪い。

私は己が悲劇のヒーローだと信じるが故に、凡庸に身を落とす馬鹿馬鹿しさを好んだ。

――珠を抱き、愚と交わろう。

本当の私は作家という珠なのだが、あえて低俗で愚鈍な世界に身を落とすことで

そこに見る平々凡々とした輩の下らない暮らしと自分の幸せな暮らしを比べては

優越感を味わい、自分を慰めようとしたのだ。

自衛本能の作用だという言葉に片付けてしまって良いものだろうか。

誰もが自分だけは特別だという意識なくして存在することができない。

私の意識もその変種だと思うが、他人を尊重していないところが醜いと思う。

心の奥で相手を小馬鹿にしているくせに、

紳士面をして、決して表には出さない所が尚更醜いと思う。

私は会社の同僚とよく酒を飲みに行った。

しかしまぁ、どうしてあんな馬鹿馬鹿しい世界がまかり通っているのだろう。

あんなことをして、これからの人生に何がどうプラスになるというのだろう。

毎回毎回、私はそう思ってしまう。

大体、座る席を決めるところから馬鹿馬鹿しい。

店まではるばるやってきて、ついに席を前にしたと思いきや、

途端に全員が遠慮の固まりと化し、屹立不動になる。

そして少しずつ身体を動かし始め、それぞれ自分が一番損をしないだろうと思った席に

じりじりと進んで行く。こんな場所でも駆け引きを避けられないことに呆れてしまう。

場を引っ張る奴が必要だ。

いい大人が何人も集まっているのに誰かがリーダーシップを取らなくては

オーダーすることもままならない。

最初のうちは会話も続くので調子が良いが、途中で話題が切れてしまった時が悲劇だ。

みんながみんな、しゃべらない自分をこう言い訳しようとする。

――私は酒が好きだから、こうしてグラスを口に運ぶので忙しい。

私の口は酒を入れるためにあるのであって、おしゃべりをするためのものではない。

自分からしゃべるようなことはできないが、誰かに話し掛けられたら

まぁ仕方がないのでこちらも答えてあげるよ、と。

そして無闇矢鱈にグラスを口に運ぶ。小さな一口を、何度も何度も小刻みに繰り返す。

その行為があちこちで見られるような時間帯になると、

会話をすること自体がもう駆け引きになっているのだ。

酒席では「会話ができないこと=悪いこと」であり、

その後ろめたさを誤魔化すために口へとグラスを運び続ける。

もちろん飲みたいわけではなく、とにかくしゃべっていない奴は

悪い奴だというルールがあるので、そんな意味のない行動を取る。

己を守るために、そういうポーズを取るしかない。

あぁ、人間とはどうしようもなく無様をさらす生き物なのだ。

一人ではできないくせに、集団になった途端にとんでもない行動を取る。

飲めない奴を見ると寄ってたかって酒を強い、

存在感の薄い奴を見るとそれにつけこんで姑息な虐めを始める

。酒席とは誰もが楽しくなって過ごすものではなかったのだろうか。

しかし残念なことに、現実では一部の人を不愉快にさせるという犠牲を払って、

他の大部分の人たちが馬鹿笑いをするなどという悪習がはびこっている。

あぁ、こんなところにまで弱肉強食の資本主義を持ち込まなくてもいいだろう?

酒のつまみに交わしている話は何だ?

社内の下馬評に終始する下らない会話ばかりではないか。

そして、その会話では話題の人物と自分が

いかに親密であるかを示すエピソードを話すことが一番のお手柄とされている。

本当に親しくなくても良いのだ、

ただ個人的な関わり合いがあったという話が出来れば自慢になる。

しかし、どうして広い宇宙にいながらたった一匹の猿の話をしなくてはならないのか。

同じ口を開けるなら、芸術論や人生論を交わしたほうが

まだ少しは互いの未来に有益なのではないか。

飲み会というのは今までの愚痴をこぼすためにあるのではないだろう。

お互いのこれからに何かしらプラスのものをもたらすために開く会だろう。

だったら、もっと前向きな話をするべきなのではないか。

交わし続けられる、内容のない会話。

その場を繋ぎ止めるためだけに言葉が生まれ、

思想を持たない音のキャッチボールで人が騒ぐ。

本当にみんながその場を楽しんでいるかといえば、決してそうではない。

責務が人を揺り動かすのだ。

飲み会に参加してしまった以上は、あたかも自分が楽しんでいるかのように

振る舞わなければならないという義務が課せられる。

そうだ、その場に居合わせた者全員が楽しんでいるという雰囲気が作られなくては、

人間たちは許されないのだ。

さらに哀しいことに、これは理論で頭の固まった男性たちだけのことではない。

人生を上手に楽しむことが出来るはずの女性達も、男性と同じような表情になっているのだ。

女性達だけが固まって座っている席ではそんなことはないが、

一人の男が混ざるだけでそんな悲劇が起こってしまう。

周りに合わせて愛想の笑顔を作る女性の顔には悲壮感が漂う。

あぁ、その芝居は人間の罪だ。

互いが互いを牽制し合って偽りの笑顔が生まれ、まやかしの言葉が宙を舞う。

後には何も残らず、一瞬の馬鹿笑いだけが席上に響き渡り、

哀れな人間どもは化かし合い、慰め合い、その場をしのいでゆく。

酒席においての笑顔とは自由意志の産物ではない。

踏み絵を迫られた者が取る決死の追求逃れなのだ。

そんな陽気な飲み会で、もしも一人不愉快な表情を浮かべている者がいたとしよう。

彼はそんな状態で世を渡って行けるか?いや、無論、否だ。

そういう奴は周りから排除され、同時に自らもグループから身を引くことを余儀なくされ、

孤立した存在となってしまう。

酒席はそれぞれの進退がかかった争いの場でもあるのだ。

己の意志で、本来楽しむためだけにやってきた酒席のはずが、

誰もが100%楽しむことができる場ではない。

不思議だ、実に不思議だ。

みんなはこんなのでなんとなく満足しているらしい。

実益はなくとも、みんなで同じ時間を共にしたことにより、

互いにより一層近付けた気になるのだ。

幻同士でつながる如何ともし難い絆。その絆を求めて酒を交わす。

なんとなくで楽しみ、なんとなくで後に続けている。

あぁ、酒席とはその程度のものだ。なんとも協調性のある営みではないか。

支払い時に起こる、見るに耐えない譲り合い。

こういうことがあるのは分かり切っているのに、

何故か店の最後まで来て誰が払うのかでごちゃごちゃもめている。

レジの前でうだうだしていても店の人に迷惑をかけるだけだ。

なんだその無様な姿は!

いい大人達が財布片手に小競り合いをする様は、

傍から見れば真面目なスーツを衣装にした道化師たちの喜劇のようで、

物笑いの対象だろう。恥を知れ!

次の店に行く行かないでまたお互いを気遣い、警戒し合う。

店を出たところで足を止め、意味無き立ち話を始める。

あちこちに数人単位の円陣をつくり、知らん顔で話し始める。

これがなかなか先に進まない。これは周りを警戒している姿なのだ。

この次の店には行かずに帰りたいが、このままさっさと帰ると批難を受けるので、

なんとなくその場に残っている。

あるいは、すぐにでも次に行きたいが、そんながつがつした態度を

露骨に取るわけにもいかないので、無関心を装ってその場で待ち、

誰かが背中を押してくれるのを待っている。まぁ、そんなところだろう。

一人が危険を冒して最初に動く瞬間を誰もが待っている。

自分一人では何もできない。

ついに痺れを切らした一人が勇気ある行動を取れば、

その陰に乗じて皆一斉に動き始める。

そのあとの行動が怒涛のごとく進むのを見ると

元々みんなの意志ははっきりしていたのではないか。

ほら、みんな自分がどうしたいのか決まっていたくせに、だらだらしていただけなのだ。

これも、可愛い羊の群れを見ているかのような馬鹿馬鹿しさだ。

人はコントロールされて動くものだったのだろうか。

何はともあれ、足は自然とカラオケに向かっている。

誰が幹事を務めても、二次会は決まってカラオケなのだ。

どいつもこいつも能がない。

そんなお決まりのパターンで誰が喜ぶと思っているのだろうか。

無難な責任逃れなのか、それともそもそも人間には

そのぐらいの行動範囲しか許されていないのか。

狭い部屋に何十人も詰め込み、たったの一人二人ががなる耳障りなカラオケ。

たった一時間のショータイムでも二十四人が集まれば

丸一日が泡沫となって無駄に消えてしまう。

無意味な時間の垂れ流しだということに誰もが気付いているはずなのに。

気付いてはいるはずなのに!

他人の楽曲を間借りしてあたかも自分の思想のように歌い、

ボーカルラインはCDのものをコピーしようとするが、できる訳がない。

どこにエンターテイメント性や芸術性があるのか。

歌うほうにも聞かされるほうにも、何もメリットはない。

まぁ、みんなで同じ行動をすることで安心するのが雑魚どもの業なのだろう。

カラオケはまさにサラリーマンの愚毒の象徴だと思う。

凡そ本質が伴っていない。理性的ではなく、効率的ではない。

社内ではいかに生産性をあげようかと頑張っている連中だが、

この時ばかりは皆一斉に愚に返る。

それならばついでに私も一緒のレベルに下げてみよう。

そんな子供のような場所で、私ひとり真面目なことを考えていても、

その場を楽しむどころか逆に変人扱いされるだけだ。

いつもの己を通して否定をされるなら、馬鹿をしてみようではないか。

率先して馬鹿になろうではないか。馬鹿げたことをする私もまた一興だ。

会が終われば、いかにも自分は楽しんだぞーという雰囲気を周りに見せながらお開きとなる。

店の前からさみしく一人で帰るような無能ぶりを見せるわけにはいかないから、

同じ方向の人が身を寄せ合い、どれだけ自分が楽しんで、

どれだけ自分に仲間がいるのだぞというアピールをその場に残しつつ、

ようやく駅へと消えて行く。

結局のところ誰も飲み会を楽しんでなんかはいないのだ。

なんとか無事やり遂げることに意義がある。つまり仕事と同じなのだ。

私はこうした絶望を知りつつも、酒の場に進んで参加した。

大騒ぎはできなかったが、かといって静観を決め込むようなこともしなかった。

適当に、あくまで適当に騒ぎ、場に溶け込むようにしていた。

自ら馬鹿になろうと努めていた。

しかし、いくら身を堕としても私は眠れる竜である。

飲み会の最中でも、会が終わってからも私はその意識を常に再確認し、

自分の特異性にしがみついていた。

自分だけは周りとは違うと信じる心が人一倍強かったのだ。

私にとってこの時だけが、自分を他の連中とは同じではないと痛感する機会だった。

自分も馬鹿になった振りをしながらも、

目の前で馬鹿騒ぎをする他人を心の奥底で嘲笑していた。

私はこいつらとは違う、こいつらはこの場を楽しむ振りをするだけだが、

私だけはこの場を作家としての経験に役立てることを課せられている、

つまりこいつらよりもさらに上等な使命があるのだ、

と思うことで私の心は大いに静められた。

なんという中途半端な己の立場。

卑下する俗事を捨てて作家という己の本性になりふり構わず生きるのでもなく、

かといって己の熱い心を忘れて会社の凡々たる連中に溶け込むのでもなく、

どちらにもいい顔を向け、どちらからもはっきり一線を置いている。

中立的なのではない。双方の良い点を兼ね備えているわけでもない。

ただ地面に足を着けていないだけなのだ。

どちらの悪いところにも該当せず、どちらの良い部分にも当てはまっていない。

中途半端だ。最低だ。一番役に立たない種の人間だ。

そんな私も今年で三十になった。

道の選択権が与えられた二十代はもう終わった。

男の三十というと、己が一体何者であるのかの大きな決定をするべき年齢であり、

二十代で己が選んだ道に向けて本格的に突き進む時期だろう。

しかしこの私は、三十になって己の方向性がまだ全然見えていないのだ。

自分の人生に何があるのか、私の命は一体何なのか。

大切なことがはっきりしていない。

しかし、毎日は私の悩み事を気にかける節もなく、静かにひたすら続いてゆく。

何も、誰も私を責めることはない。

ただ適当に幸せな日々のなかで、半透明な悩みに自問自答を繰り返す私がいた。


「よう、石ちゃん。久しぶり」

「おっ、山。半年ぐらいぶりだね」

ある夜、高校の同級生から電話がかかってきた。

「川田のところに二人目が産まれたってさ。また女の子だって喜んでいたよ」

「そうかー。もう二人目か。早いねー。いや、早くないか。

三十にもなれば俺たちもすっかりそんな年齢だなー」

「まぁ、三十ってのは何が起きてもおかしくない年だよな。

オマエみたいにまだ子供を作らないで奥さんとのんびり暮らしている方が珍しいかもしれない」

「いや、オマエこそ三十なんだからそろそろ結婚してもいいんじゃないの?」

「俺はいいんだよ、俺は。気ままな一人暮らしが性に合っている。

好きなだけ飲みにも行けるしな。

ところで、その飲みなんだけどさ、再来週の土曜日に同窓会でも開こうぜ」

「十二日?いいよ。半年ぶりにまたみんな集めるか」

「前と違ってこの頃はみんな集まらないよなー。きっとまた五~六人しか集まらないぞ」

「まぁ、そうかもね。みんなそれぞれですっかり忙しくなったし」

「とりあえず周りに声をかけてみるよ。オマエはもう確保ね。

もちろん場所は川越だから。よろしく!」

「いいよ、必ず行くよ」

「時間とか店とか決まったらまた連絡する。じゃあな」

「十二日ね。それでは」

――電話が切れる。私はため息をついて、すぐに後悔を始める。

どうやら、私はまたくだらない飲み会に参加するらしい。

本当は行きたくないくせに、誘いの言葉には決してNOと言うことができないあわれな男だ。

このかつての仲間たちと集まっても、

昔のように校舎の裏で隠れんぼや缶蹴りをして遊ぶという、

豊かで有意義な時間を過ごすわけではない。

大きくなり、ごく普通の男となってしまった彼等と、

会社の連中と大して変わりがないことをするだけなのだ。

先が分かっているのに、愚かな私はまた足を運んでしまうのらしい。

あぁ、我ながら馬鹿だ。我ながら無様だ。

金と時間を無駄にすると分かっているのに、それでも肯いてしまう。

怠惰さの上に愚かさが重なり、己が醜悪な存在に見えてくる。

本当に、私はどうしようもない人間だ。

「――どうしたの?みんなで集まるの?」

真子が声をかけてきた。

「うん、再来週の土曜日にまた同窓会を開こう、って山からの誘いだよ。

それとね、前から言っていた川田っていう同級生のところに二人目が産まれたって!」

「えっ?それじゃぁ、誕生祝い?」

「いや~多分川田は来れないだろうし、普通の飲み会だよ」

「そう、みなさん集まれるといいわね」

「いつもすいませんねぇ~」

「いいわよ、これからみんな段々と家庭をもって子供が産まれて、

ますます集まれなくなることでしょうから、集まれるうちに集まっておけばいいのよ」

「はいはい、分かっていますよ。僕だって子供が産まれたら行かないようにしますからね」

「そう!分かっているじゃないの!今だけだと思って行ってらっしゃい」

真子が笑いながらそんなことを言っている。

そうだ、こんな生活もきっと長くは続かない。

馬鹿が馬鹿でいられる今のうちに、馬鹿になっておくのも悪くはないのかもしれない。

十二日になると、飯田橋で有楽町線に乗り換え、

そのまま直通の東武東上線で川越に向かった。

私が卒業した高校は川越市内にあり、ほとんどの同級生が

まだ川越周辺に住んでいるから集合場所はいつもこっちになる。

葛西から行くにはとても迷惑な距離だ。でも、みんなこっちにいるから仕方がない。

電車に乗っていると、送り出してくれた妻の温かい態度を思い出してため息が出てしまう。

まさか真子は、私がうきうきとした心で同窓会に向かっているとでも思っているのだろうか。

満たされた人生の一場面として、同窓会に顔を出しているとでも思っているのだろうか。

この同窓会に参加して得ることができるものが、

いつも通りに真子と家でくつろいでいて得ることができるものの

足元にも及ばないということははっきりしている。

それはもう間違いないと断言しよう。

それなのに何故こうして足を運んでいるのか。そこには、私の心に住み着く謎があると思う。

――あえて幸せを放棄することで己に野性が戻ると勝手に思い込んでいる。

――いつもの幸せのみならず愚の毒も経験することで人生の妙味が見え、

作家として大成する基になると信じている。

――本当の己とは、この凡庸さと対等な、愚かな虫けらだ。

私は一体何者なのだろう。この道を進んで、どこに辿り着くのだろう。

今の状況をどうすれば、常に満足が得られる生活にすることができるのだろう。

平日は会社のことばかりに埋め尽くされ、こういう大事なことを考える時間がない。

今のような休みのうちに道を見つけておかなくてはずっとこのままではないか。

私は今の状況に満足してはいない。

私に相応しい別の場所がきっと私を待っている。

なんとか、今を前進させなくてはいけないのだ。

何もすることがないと、いつもこんなことばかり考えてしまう。

そして哀れな己は続く。考えても、考えても結論が出ない。

私は流されるしか術のない小舟。

自分を取り巻く大きな流れのなすがまま、

私の心は今日はこちら、明日はあちらと彷徨っている。

謎だ、自分自身が最大の謎だ。どこへ行こうとしているのか、

どこに行けば満足できるのか、いつまで経っても解決できない。

少なくとも、今夜私が取ろうとしている行動が逃げであり、

夢描く自分自身に向かっていないことだけは間違いない。

しかつめらしいことを考えるのも川越に着くまでのこと。

川越が近付くにつれ心の曇り加減も募ってゆくが、電車を降り、

仲間と落ち合うと悩みが全て消えてなくなった。

途端に私は平々凡々たる一人の人間へと堕ちる。

さぁ、今夜も私は不思議の扉へと足を踏み入れるのだ。

川越駅改札前の踊り場にはいつも沢山の人の輪ができているが、

目指す連中はすぐに分かった。

他では若い男女が入り混じったグループがあちこちで円になっているのに、

その中に男だけで集まっている連中がいるのだ。

しかもその一群が周りに輪をかけて楽しげに騒いでいるからよく目立つ。

全員揃って大きく手を振り私を呼んでいる。恥ずかしい。

集合時間の十分前に来た私が一番最後なのだから、あいつらは相当張り切って来たらしい。

それにしても、まぁいつもの奴等が集まったものだ。

毎回幹事を買って出る山は、脱サラで整体師の卵だ。

人間ができかけているが、彼にはちょっと自分を優先させ過ぎる癖がある。

酒好きで、飲めばさらに饒舌になり、座は彼の説教の場になりがちだ。

誰に対しても、山は山の世界を通す。

そんなことができるあいつがうらやましい。

もっとも、そんな性格だから会社勤めは合わなかったのだろう。

今は先生について整体の修業中だが、

独立して自分のペースで仕事ができるようになったらあいつはもっと輝くだろう。

プログラマーの森ちゃんには、残念ながら洗練されたセンスというものが全くない。

だが、あるいはだからこそ、彼はどこまでも純粋だ。

役は三枚目だが、周りの誰からも好かれる愛すべき三枚目だ。

軽薄さが服を着たようなインチキ証券マンの高田。

学生時代はただ愉快な奴だったが、社会に出てすごく要領が良くなった。

私とは一対一だと話がかみ合わないが、みんなでいる分には面白い。

女性に対しても軽いのだが、あれで結婚しているのだから奥さんも大変だろう。

まぁ、あいつはあいつで、うまくやれるだろう。

私のような暗い性格をした人間にはないものを持っている奴だ。

その部分だけが、喉から手が出るほど羨ましい。

エリートを思わせる風貌だが、実は気が弱く、

みんなの調整役に回るのがエンジニアの青田だ。

このグループでは、昔から彼の存在は大きい。

他の奴等が個性的過ぎるので、青田がいないとバランスが取れないのだ。

きっと我々以外の人たちとでも、青田の存在は同じようなのだろう。

人と人を結びつける貴重な人間だ。

日高は、このグループのまとめ役となっている、

熱血バカで隙がなく、おしゃべりな車の営業マンだ。

高校時代はバトミントン部の部長で、頼もしいリーダーだった。

毎朝出勤前にプールで泳いでから会社に行くようなタフ・ガイだ。

いつも元気で、腹に黒いところがない。信頼できる男だ。

いつもはここに川田が加わっていた。

さすがに子供が生まれたばかりなので今日は誘わなかったのだが、

本人は来たがっていたらしい。

あいつは美容師だ。今は所沢の美容室で

雇われ店長をしているが、そろそろ独立の時らしい。

真面目な男で、やることなすことが堅い。

責任感の強さは人並外れている。

あいつなら、家族をちゃんと幸せに導くことができるに違いないと思わせるような人間だ。

こうして男だけで六人も集まり、駅からサンロードへと歩いて行く。

このサンロードは昔の思い出だらけだ。

高校生の頃、みんなで集まってはよくこの辺りのゲームセンターに来た。

卒業以来ここを通るたびに、土曜日の部活が終わってからの

ビリヤードやボーリングの楽しい時間を思い出す。

時は移り、今ではこの連中とこの道を歩いても居酒屋しか行かなくなった。

騒ぎ方は当時と変わらないのだが、そこだけが違う。六人は居酒屋へと入って行く。

全員が高校の同級生で、同じバトミントン部で三年間を共にした連中だ。

バトミントン部も学年で二十名近くいたのだが、今はなかなかみんな集まらない。

この六人と川田を加えた七人は特別仲良しだったから、いつも集まる。

もう十数年来の付き合いになので、お互い気心は知り尽くしている。

昔話でもすれば話すネタは限りない。

全員明日の仕事はないようだし、今夜は気の合う仲間同士、どこまでも飲み続けよう。

同級生は本当にいいものだ。

この連中と騒いでいると、自分の心の中にあの頃のような子供がいるのを知る。

それに、それだけではない。

みんなももう三十になったのだから、馬鹿騒ぎだけではなく深みのある人生相談もできる。

卒業してからの人生を分かち合うことができるのだ。

みんなが同じく子供にも大人にもなれるだなんて、

高校時代という人生で最も感性が敏感になっている時間を共有した仲間同士だからこそできることだ。

会社の連中たちとの酒席とは全く違う自分になっているのが分かる。

申し分ない材料が揃った。これ以上の席はないはずだ。

何の利害関係もない古くからの仲間たちに囲まれ、時間も酒も話題も豊富にある。

今ならば普段の生活にはない高い次元の話をすることができるだろうし、

思い切り童心に返って騒ぐのもいいだろう。

どんな凄いレベルの言葉でも自然と口にできるだろう、

子供の翼を取り戻して大きく羽ばたくこともできるだろう、このかけがいのない今ならば。

――しかし、世界はいつもと何も変わらない。

酒席の上を飛び交う言葉ときたら、やはり女のことなのだ。

男が口を開けば、まず女。いつでも、誰でも、女の話。

結婚していようがいまいが関係ない。

既婚者の高田も、そして私も、女の話で盛り上がってしまう。

あぁ、男の単純さには嫌気がさすばかりだ。

男と男が面と向かって女の話をするとしよう。

何が聞き出したいかと言えば相手に女がいるかどうかだ。

聞きたがっていたくせに、

そいつに付き合っている女性がいると聞いただけで納得してしまう。

何を納得しているのか、何も納得しているわけがない。

その付き合っている女性がどういう人なのか、二人がどういう付き合いをしていて

何を共に求めて生きているかというところが肝心なはずなのに、

その辺りを詮索することは野暮だという理由により、

つっこんではいけないという雰囲気になる。

表面だけを触って話が終わってしまう。全くおかしな話ではないか。

それでは会話した意味がないし、お互いにとって何の進展もない。

だが、それが男同士の会話なのだ。

いや、人間同士の会話なんて大体そんなものだ。

所詮、程度に限度がある。

その例に違わず、この四人も順繰りに女がいるかを自分でぺらぺらと発表してゆき、

終いには私と高田も二人目の女がいるかどうかをつっこまれる。

さらに不思議なのが、付き合っている、あるいは付き合った女の数が

多ければ多いほどそれを男の勲章だと認めるような空気だ。

私は付き合っている人数が多いのは感心できないが、

付き合った人数が多いのはそれで良いことだと思っているが、

逆に少ないことを口にした時に向けられるあざけりの視線はあまり好きではない。

なんだろう、他の女性よりも自分が優位な場に立っているということを

証明したがる女性特有の見栄のことを私は内心では軽蔑しているが、

同じことを男もしているのだ。男女の別ではなく、人間としての醜さなのだろう。

女、女、女。顔を付け合わせれば女の話。

みんなSEXの魅力に取りつかれてしまっている。なんと、ごく普通の男らしいことだ。

この連中が普通の男たちだったらまだいい。

しかし、こいつらは違う。少なくとも、私にとっては違う。

あぁ、当時は無邪気という翼が生えていたこの同志たちも、

今や他の輩と何も変わらなくなってしまった。

昔はもっともっと夢あることで盛り上がった。

熱っぽい口調でそれぞれが好きな音楽の魅力を語り合った。

みんなで同じ推理小説を買って来ては最後の謎解きの部分を破り、

各自で読んできては最後の解決がどうなるのかの

推理を闘わせて殴らんばかりの気勢になった。

部活が終わってから校庭でする追いかけっこに時を忘れ、夜中に帰ったことだってある。

そんな素敵な時間を、まるで夢のような黄金の時間を過ごした少年たちでも

時の流れに飲み込まれることは避けられなかったらしい。

SEXしか考えることが出来ない頭の構造を持つのが男の宿命とは知っているが、

私は哀しくて仕方がない。

今や、私たち六人の世界はすっかり狭くなった。

追い討ちをかけるように、会話もいよいよ下らなさの佳境に差し掛かってゆく。

酒が進むにつれ、ますます盛り上がる女の話。

仲間内に限定される共通の知り合いの軽薄な噂話。

具体的な金額は口にしないが、もらっているちっぽけな給料の探り合い。

住んでいる街のどうでもいい話。乗っている車の自慢話。

説明されてもさっぱり分からないそれぞれの仕事内容。

――などなど、とても普通の話ばかりだ。

この得難い同士たちとするほどの会話ではない。

これでは会社の同僚たちとする話と何ら変わりがないではないか。

こんな貴重な仲間と、こんな恵まれた場所で酒を交わしているのに、

哀しいかな、いつまで経っても私の心を満たすようなことは

ちっとも話題にあがらないのだ。

ほとんどが、女の話だ。どうも、みんなもっとSEXがしたいらしい。

そして、他のみんなにももっとさせたいらしい。

自分だけするのが後ろめたいのでみんなにもなんとかさせようとしているようだ。

人間たるもの、SEXの引力に逆らえない宿命にあるということは私だって重々承知している。

種の繁栄の観点から見れば結構なことだが、

昔に輝く時間を分け合った奴等が

そんな通俗極まりない落とし穴にはまってゆく姿は正直見たくない。

思えばあの頃はまだみんな子供だったから、

独立した一人の人間としての生殖プログラムに操られることがなかった。

しかし、高校を卒業してそれぞればらばらに道を歩き始めた頃からだろうか、

私を含む全員が次第に狂ってきたのを目にするようになった。

それは大人になることの痛みであると私は解釈した。

遺伝子に組み込まれた生殖プログラムが作動して、男にSEXを強要するのだ。

毎日毎日同じプログラムに踊らされる運命を、

少年から青年へと進む過程でいつしか誰もが背負うことになってしまうのだ。

告白すべき事実がある。

卑下しているはずのその低レベルの会話に加わっている私自身は、

なんとその場を心から楽しんでおり、その場の一員として周囲へ見事に溶け込んでいる。

つまり、私も男と生まれたからにはSEXの引力にどっぷり漬かっている。

昔の仲間たちと一緒にいるという安堵感からくるものだろうか。

確かにこの同窓会でいつもより盛り上がっているのは、

周りの全員が気の置けない仲間だという所が大きいと思う。

確かにそれはある。

しかし、さらに告白すればこういう低レベルな時間を楽しむ自分は今だけでない。

初めから下らない大人同士として出会った会社の連中と行く席でも、

こういったつまらなさを楽しんでいる己がいた。

すると、私は常に低レベルの話題に鼻の下を伸ばして加わっていることになる。

これはどうしてだ。

自分だけは特別だと言うまやかしにしがみついているから悪いのだ。

元々の発想を変えてしまえばいい。

所詮、人間はクズだ。一人一人は雑魚だ。

私はクズな集まりのうちの、一匹の雑魚でしかない。

人間の限界には大したことがない。

何年、何十年かけたとしても空は飛べない。

努力したところで一番の理想は叶わない。

何十年も同じような日々の営みを繰り返すだけ。

SEXの罠から逃れることはできない。

どれほどの偉業を成し遂げても、一生せせこましく働き続けなくてはならない。

争うのはいつも同じことが原因で、根本的な解決が全然できない。

遥か彼方の太陽に、己のすぐ隣にある毎日のリズムを左右される。

いくら心身を鍛えようとも不老不死にはなれない。

食べては排出し、また食べては排出する。

時間を重ねたところでプラスの方向に成長するとは限らない。

小さく前には進むが、人間という枠を飛び越えることは絶対に不可能だ。

せめて酒に酔い、刹那の時を笑って過ごそう。

決して逃れられぬ死を前にしても、

無駄なあがきを醜く続ける囚われの身が人間の本性だ。

人間はあくまでも人間、それ以上ではない。

私もその程度の知れた人間であるところの一人である。

無知なことと真面目なことは笑い飛ばし、分からぬことと面倒なことは職業的微笑みに隠し、

隙を見つけて大酒を飲んでしまった者勝ちだ。

飲め!飲め!せめて生きているこの時に狂え!

人間は何様でもなく、私は何者でもない。

ただの宇宙のかけらだ。道端に投げ捨てられたゴミだ。

どうしようもないなら酒に狂ってしまえ!

「――そういえば森ちゃん、二年の夏合宿で肝試しをやった時にさ、

驚かす役になったのをいいことに女子トイレに隠れて驚かしてた!

変態だよな~。みんなびっくりしてたけどさ~」

いつの間にか気まぐれが起こり、話題は昔話に移っていた。

ようやく実りのある内容で場が盛り上がる。

「高田だって夜、合宿所を抜け出すのに廊下で足音を立てちゃいけないからって、

匍匐前進をしてたら結局先生に見つかって三十分も正座させられてやんの!」

森ちゃんと高田が張り合っている。

二人が顔を合わすといつもこんなエピソードで争っている。

しれっとした高田と対照的に毎度必死になる森ちゃんのリアクションが楽しい。

「違うね!森ちゃんと青田が一緒にいたからさぁ~

俺は二人を逃がすのに必死だったわけさ。

俺が犠牲になったんじゃないか。

嫌だねぇ~人の優しさを素直に受け入れられない奴って。

あ~やだやだ。あぁ~いやだ」

「なんだっ!可愛くない!このっ!」

照れたのか顔を真っ赤にした森ちゃんが高田におしぼりを投げつけた。

すぐに高田も投げ返す。みんなは大爆笑だ。

どさくさに紛れて横からみんなも森ちゃんにおしぼりを投げつけ始める。

「ウがっ!」

投げつけられたおしぼりが顔に張り付いて、森ちゃんが大きな奇声があげる。

近くの席に座っていた人たちが一斉にこっちを見た。

変な声を聞きつけた店員がやってきて、みんなを白い目で睨んだ。

こういう時、このメンバーがするリアクションは決まっている。

ほら、周りを見ると、みんながみんな

どこか遠くを見て知らんぷりを決め込んでいるではないか。

誰も声を発しない。

そんなみんなの早替りを見て店員も注意するタイミングを逸したと思ったのか、

口惜しそうに奥にひっこんで行った。

――がっはっは!!

店員の姿が消えると、たまらず途端にみんな吹き出し始めた。

「森ちゃ~ん!」

「なんだよ、『ウがっ!』って!」

「スゲーな、みんなこっち見てたぞ!」

集中攻撃を受けて、森ちゃんのやや禿げつつある額に汗が滲んできた。

耳が真っ赤だ。

「おっ、オマエら静かにしろよ~。みなさんに迷惑だろ~。

大体さ、日高が悪いんだよ、そんなマッチョになっちゃっているから~」

森ちゃんがよく分からないことを必死にしゃべりだした。

高田が隠し持っていたおしぼりを投げつけて、見事森ちゃんの額に貼り付いた。

「グわっ!!」

凄い奇声がまたあがった。

「クレイジーだ」

「ミラクルだ」

「熊でも出たか」

ますます耳を赤くした森ちゃんが、店員が来ないかと周りを見渡している。

みんなその姿を見て、巣穴から出て来て周りを見渡す

プレーリードッグの新種だということで意見が一致した。

「大体さ、石だって缶蹴りしてて部室の上から飛び降りてくるのはおかしいよ!」

森ちゃんが照れ隠しで急に私にからんできた。

「あれはさー、丁度飛び降りられそうな高さの部室だったから、

わざわざその下に缶を置くように仕組んだんだよ。作戦だよ、完璧な作戦!」

「あれはやられた~。あのせいで俺、みんなに水風船ぶつけられる罰になったし」

「水風船!あれは最高だった~。

でも森ちゃん、一番でっかい水風船キャッチするんだもん。

そうだ、確か日高が投げ返されてもろにくらったんだ!」

「そう、そう!まさかキャッチできると思わなかったけど、何故か割れなかった。

俺って何故か水風船のキャッチが上手かった!

お~し、これは今度バーベキューする時に水風船投げだな~。」

あっという間にご機嫌になった森ちゃんがそんなことを言い出した。

「九月のバーベキュー?いいね~。勝負しようぜ~」

楽しそうなので私も賛成する。

「俺もやる!今度は中にマヨネーズでも詰めてやろうぜ!」

日高がそんなことまで言い出した。

これはもしかしたら、現実となるかもしれない。

こういう話の大半はその場限りだが、これはいけそうな気がする。

本当だったらたまらなく嬉しいよ。

まだみんなに当時の少年の心が少なからずとも生きているということなのだから。

「みんな、スペシャルゲストだ!!」

トイレに行っていた山が携帯を握り締めて走り込んできた。

「スペシャルゲスト?野球部の大森でも来るのか?」

ご機嫌の日高が、冷やかしで山を遊んでみる。またまた大爆笑。

野球部の大森という奴は当時山が好きだった娘を先にGETしてしまった、山の天敵だ。

「違うっ!あと少しで凄いゲストが来るぞ。

俺達の同級生だけど、みんな知らないだろうな~」

山はなんだか嬉しそうにそんなことを言った。

でも、みんな酔っ払っているから全然話を聞いていない。

バラバラに騒ぎ、それぞれで酒の場を謳歌しているのだ。

山の言葉は馬鹿騒ぎの中に消えていった。

あぁ、世の中の単調さに対する私の失望にはつくづく根深いものがある。

山の嬉しそうな顔を見て、私は暗い心の反論を始めてしまう。

誰が来たところで同じだ。何も変わりはしない。

そう、決して変わりはしない。

ただ、この場をもっとやかましいものにさせてくれるだけ。

誰だろうと同じ、知ってようが知っていまいが関係ない。

だから、この馬鹿騒ぎに参加してくれる奴なら悪魔だろうとも大歓迎だ。

うるさく騒いで場が盛り上がればいい。

正体のない人生、理屈は要らずこうして瞬間を楽しむことができればそれでいい。

一緒にこの低レベルな一瞬の快楽を楽しもうではないか。

酒に飲まれて、どうにでもなれ。

所詮、人の日常などアルコールに支配されているのだ。

何もない、何でもない。

手作りのささやかな毎日には嫌気がさすから、

酒の魔力を借りて賑やかな幻想の世界に飛び込んでしまうのだ。

来るべき処刑を前にして、狭く汚い待合室で隣り合わせた者同士、

一瞬の快楽を分かち合う――それを美化した言葉を「人生」と呼ぶ。

大前提としての死があり、制限内でいかに下衆な小益を稼ぐかなのだ。

所謂、人生を「有意義」に過ごしたいのならば、

ちょこまか走り回って道端に落ちているエサをかき集めればいい。

頭が痛い。脳の片隅にぶら下がっている良心が、私の一番深い部分を責めたててくる。

その良心のイメージときたら、か細い声で弱々しい訴えしかできない非力な紳士であり、

単体の攻撃は握り潰すことも可能なぐらいに非力なものだが、

根元を押さえられては少々やっかいだ。

全身に点在している小さな良心どもにその影響が走り、

折角の酒の最中で私は少しばかり善の心に迷い込む。

黙れよ!黙ってくれよ!

私は今、人生の本質に酔っているつもりなのだ。

満たされるだとか、意味があるとか、

そんな奇麗事ばかり考えるから毎日を楽しむことができないのだ。

逆にこうして今ある瞬間瞬間を楽しんでしまえば、

それだけで人生は幸せだと感じることができるではないか。

それを積み重ねることで、人生は楽しいものだと最後に断言できるだろう。

どうか、もう私を自由にしてくれ。これ以上頭を抱えさせないでくれ。

姿形が美しかろうが醜かろうが、私が幸せだと感じたのなら

それが私にとっての真実だろう?

酒を飲むたび、途中でこんな想いに駆られ続けてきた。

いつもそうだ、いつも私は楽しそうな表情の裏でこんな矛盾を抱えていた。

不要!不要!不要!

そのくせ他のことに気を取られれば何のことはない、

この小さな悩みは溶けるように消えて無くなるのだ。

あぁ、もう充分だ、もういいだろう。

気になどせず、毒のない馬鹿話に夢中になろう。それで全ては解決する。

私は勢いで目の前のグラスを飲み干し、無理矢理みんなの会話に入ろうとした。

左右で交わされている内容をつかみ、気の利いた茶々でも入れてやろうとしている時、

私の目の隅にどこかで見憶えのあるシルエットが映った。

堕落し切った頭、アルコールに麻痺していてもすぐにそれと分かる。

十数年を経ても記憶は蘇る。

間違いない、どれだけ時の空白があろうとも、

目にするのがたったの一瞬だろうとも、生きている限り私が間違うことはないだろう。

こちらへと歩いてくるシルエットはあの日の少女のものだ。

途端に酔いは覚め、忘れられない過ぎし日の思い出へと私は心を飛ばしていた。

あれは私が十七才だから、高校二年の秋のことだ。

私は一人の少女に生まれて初めての恋をした。

テスト前で部活のない放課後、教室の後ろでクラスの仲間と馬鹿話をしていた時だった。

他に誰もいない教室に私たちの騒ぐ声だけが響き、静かで心地のよい時間が流れていた。

それは嵐の前の静けさ。

哀しみと喜びの嵐に心を吹き荒される前の最後の静けさだった。


「――遠藤クン」

突然、廊下から可愛い声がして私の友達の名前が呼ばれた。

無意識に私は声の方を振り返っていた。

次の瞬間、私の心に見知らぬ感情が湧きあがった。

――見知らぬ感情。それまで感じたこともないほど強いもの。

芽生えると同時に光の速さでそれは膨張し、

私の心を隅から隅まで、私の全身を脳天から爪先まで、新しい色に染め替えた。

私の心身がその少女で満ち溢れるにはたったの一目で充分だった。

少女の一瞬が、私の心に永遠を刻んだ。――私は恋を、初めての恋をしたのだ。

まさに一目惚れだった。少女を見た瞬間からたっぷり三秒間、私の世界は止まっていた。

美しい少女だった。美しく、美しかった。私は生まれて初めて人を美しいと感じた。

私の心に今も鮮明に残るその時の記憶。

十代の少女特有の、大人の女になる寸前の美しさ。

子供ではなく大人でもない、しかしその両面の美点、

少女のあどけなさと女性の美しさを兼ね揃えた、純粋で健康的な素顔の美しさ。

咲き始めの春桜のような、柔らかく、若々しい美しさ。

――決して忘れない。いつまでも忘れられない。私の初恋、一目惚れの恋だった。

その娘は遠藤に軽く手を振り、遠藤も手を振り返した。そして少女は通り過ぎて行った。

あとで、彼女は一年生の時に遠藤と同じクラスにいた娘だと知った。

当時の自分を振り返れば、それまでの人生は平凡なことばかりだった。

自分の人生に特別な何かがあると意識していなかったし、期待もしていなかった。

しかし、少女の一瞬が私の全てを上下逆さまにした。

私は現実の人生で、初めて生きることの喜びを感じた。

少女が感じさせてくれた。

私の心に、人生に、始まりの風を吹き込んでくれたのだ。

――十数年ぶりにたっぷり三秒間、私は気を失っていたらしい。

誰も私が酔っているものと思い、気が付かなかったことだろうが。

私の初恋の女性、白沢美恵子がそこにいた。

私はアルコールが入った時よりももっと深い酩酊状態に堕ちたのだと思う。

目の前の光景がよく理解できず、まるで現実の世界に生きている心地がしなかった。

時の流れを無視して、幻が姿を現した。幻は私に近付いてくる。

有無を言わさず、どんどん私の世界に足を踏み入れてくる。

堕ちぶれた今の私を騙したところで何の得にもならないだろうに、何故か私に近付いてくる。

そして、幻が、あの初恋の少女が、私の斜め前の席に座ったのだ。

彼女がいる。ここに彼女がいる。

息遣いも聞こえてきそうな程近くで、横の友達と話をしている。

あぁ、信じ難い。信じ難い、まるで信じ難いのだが、

どうやら彼女は私の妄想が創り出した幻ではないようなのだ。

彼女が隣の女友達と話し始めた声をきっかけに、

私はようやく冷静な状態を取り戻しつつあった。

彼女の美しさは相変わらずだった。

卒業以来、十二年間彼女にまみえる機会がなかったが、

その程度の時の流れで変わる彼女ではなかった。

同級生だから、私と同じく三十歳になったのだろう。

確かに当時のような若々しい美しさはなくなったが、

生来の美がすっかり落ち着いて品が出た。

昔と変わらぬその愛くるしい頬、澄んだ瞳。

さすがにもう当時の清楚な前髪は無くなり、

額を出してすっかり大人の女性らしい髪型になった。

口紅を差し、アクセサリーをつけた彼女だが、昔の面影はしっかりと残っている。

外見は何も変わらず、当時の女神のままだ。

――左手の薬指に指輪をしていない彼女がここにいる。

どうやら山が同窓会に呼んだ女友達の、さらにその友達として彼女が来たのらしい。

当然私は彼女を知っているが、他の皆は全然知らないだろう。

山も彼女は知らない。彼女は、私はおろか、こちらの誰も知らないだろう。

お互い知らない者同士、しかし全員が同級生同士という集まりになった。

狐につままれた気がする。天狗に化かされた気がする。

あぁ、あの頃は全く近付けなかった彼女。

話し掛けるなんて到底できなかった。

遥か彼方、手の届かない存在だったあの初恋の少女。

時を経て、今こうしてその少女が私の目の前にいる。

これは奇跡か。これは悪夢か。

そんなことが、そんな不可能なことが起こるものなのか。

――あの娘が、あの少女が私の目の前にいる。

これが十数年の時の流れというものか。

正門を出てすぐの駄菓子屋。

ベンチに座って彼女が友達と一緒に缶ジュースを飲んでいる。

その柔かな女神の微笑み、私はすぐに彼女の姿を見つけた。

土曜の午後の部活をさぼって帰る私が、自転車でその脇をすり抜ける。

話し掛けたい。でも、手が届かない。

話し掛けられたい。でも、それも恐い。

どうすればいいのか、分からない。分からなくて、何もしない。

冷静になろうと努めた。昔のではなく今の私に戻ろうと努めた。

頭の中を駆け巡る遠い日の映像から逃げ延びて、目の前の今を見るようにする。

あぁ、当たり前なことを私の頭は思いついている。

当然なこと、しかし私にとってはとても大きな意味を持つことだ。

――私はもう立派な社会人になった。

今の私なら、彼女に言葉をかけることができるのではないか?

今さら彼女とどうこうしたいというわけではない。

ただ、今なら、この今ならば、あの頃叶わなかったことができると思うのだ。

ほんのわずかな会話でいい。今の自分は昔と違うという決定的な証を手に入れられる。

気の弱い私は当時と大差なく今も躊躇の固まりで、

女性に対しての苦手意識が克服できないが、

社会人たる私にはあの頃になかった術がある。

そうだ、会社で覚えた業務的会話という術があるではないか!

今はどんな相手とでも最低限の会話が可能になったのだ。

場はすっかり和んでいる。今なら何を話し掛けても不審には思われない。

いや、逆に話し掛けないほうがおかしいぐらいの打ち解けたムードだ。

自己紹介にかこつけて、彼女に私の存在をアピールしてみることもできるだろう。

何を望むわけではない。

ただ、ここで彼女に私という人間の記憶が少しでも残れば、

当時の私が報われるのではないかと思うのだ。

今を逃せば一生機会はないだろう。

十数年間の空白を言葉に込めて、伝えてみよう。

どうなるか、結果など知ったことではないが、やってみて損なことはない。

いや、是非ともやってみるべきことなのだ。

黙っていた私を置き去りにして、

席では山や高田と彼女たちとの会話が盛り上がりつつあった。

彼女の友達がよくしゃべり、場はさっきよりもずっと明るくなっている。

二~三人の和ができていて、あちこちでバラバラの会話が交わされている。

さすがに見知らぬ人ばかりの中にいるので、彼女は話を聞いているばかりで、

誰かに話しかけられるのを待っているように見えた。

黙っていていきなり彼女に話しかけては変だろう。

まずは隣の青田と何でもない話をしながら、私は彼女の様子を気にしていた。

そして私は、周囲の会話から彼女が離れた決定的な瞬間を見た。

そのチャンスを逃さず、私は口を開いたのだ。

ついに運命的な一言を発した。当時はただの一回も叶わなかったこと。

憧れや夢というものの、そのまた上をいく神の領域だと思っていたこと。

私が、彼女だけに向けて放つ初めての言葉。

当時の少年から見れば、口から虹を吐くような行動。

重い、重い意味を持つ一片の言葉が放たれる。

世界が変わる。永遠だと思っていたことが音を立てて崩れる。

過去と現在が、ここで交差するのだ。

さぁ、私はこの一言で世界を変えるぞ。

「――白沢さん、」


私は思い出していた。あれは卒業式の日。

結局一言も交わせないままで卒業を迎えたあの日。

彼女は卒業証書が入った筒を手に持ち、友達と楽しそうにしゃべりながら廊下を歩き、

角を曲がって姿を消した。私の前から、永遠に姿を消した。

その廊下の奥には、彼女の後姿を見つめながら立ち尽くす少年がいた。

その時少年は何を思っていたか。もう逢うことはないとはどこかで感じていたが、

目の前の現実を全然受け入れていなかった。

元々が幻、幻はどこまでいっても幻、全ては幻の出来事だと思っていた。

無力だった自分――これに尽きる。

今思うと、当時の私は哀しいぐらい無力だった。

結局何もできず、何もしなかった。

激しい恋愛感情に身を包まれながら何をしていたか。

彼女と話す自分を夢見て、学校で彼女の姿を遠くから探していただけだ。

好きなら好きと伝えればいい。

若い身には何の束縛も無く、伝える行為に何の障害もないのに、私は何もしなかった。

いつかは、と思うだけで全てを運命任せにしていた。

自分が何もせずとも時の流れがいつか必ず二人を結ぶと信じていた気がする。

返す返す、己の馬鹿馬鹿しさ加減にため息が出る。

今はそれが己の若さゆえのことだと思っている。

若さとは、無力さの同義語だ。若いという言葉には無力だという意味が自然と含まれる。

無力という言葉の根底には若いという事実がある。

若さは無力さであり、無力とは若いことだ。

私は本気で辞典にこう付け加えるべきだと思う。

――若さとは無力さの同義語である、と。

若さには経験に裏付けされたノウハウがない。

鋭気があっても実力がない。

残酷ではないか、いくら気を高めようとも具体的なものが伴わないとは。

どこまでも若い心を燃え上がらせた結果、

結局今の自分では何もできないと分かった時の心境はいかなものだ。

そこには自らへの不信、世界への絶望、そういった闇の類のものしか残らないではないか。

若い身空で信じるものを奪われてしまっては先が思いやられる。

危ないことだ、大変に危ないことだ。

若さに達成は与えられないのか。

若いうちは、せいぜい己の無力さに失望しておくぐらいが関の山なのか。

何度も何度も信じるものに裏切られて、ようやく力ある大人への道が開かれるのか。

達成とは年齢を重ねた者にだけ与えられる特権なのか。

意志の強さは関係がなく、経験で決まってしまうものなのか。

――無力だ、無力だ、無力だ!若さとはなんという無力さだ!

その掟に違わず、若き自分とはすなわち無力な自分だった。

私は、彼女のその後姿が最後だと信じることができなかった。

卒業した後も、彼女にもう逢えないということが嘘だと思い込んでいた。

しかし数ヶ月が過ぎ、新しい学校での生活が始まり、

毎日が新しい生活に埋め尽くされた時、初めて私は涙を流した。

その時、ようやく事実を事実と認めることができたのだ。

もう、初恋の少女に逢う機会はない。

私は与えられたチャンスを何もしないままみすみす逃したのだ、と。

それから始まった暗い闇の中で、私は己の無力さを憎んだ。

夢ばかり見て、地に足を着けていなかったことの馬鹿馬鹿しさに自嘲を繰り返した。

自分自身を恨み、自分自身に嘆いた。何度も何度も、自分の愚かさを責めた。

数ヶ月の絶望が続いた。

やがてそこから己を駆り立てたもの、それは皮肉にも己の若さだった。

無力なだけだったはずの若さが、己に意志と力を与えてくれた。

若さには無力という意味の他に、不屈の意志という意味があった。

道を閉ざしたのが若さならば、道を開くのもまた若さであったのだ。

大きな矛盾。

だがそれを不思議がる余裕もなく、私は目まぐるしいスピードで生活を一変させた。

唾棄すべきは己の無力さだ、こんな惨めな思いを二度としてはいけない。

そのために、私は力をつける。

何事にも負けないだけの力をつける。

強くなりたい。もう自分自身を憎むだなんてしたくない。

そのために、強くなろう。そうだ、強くなろう。

強くならねばならない。強く強く、そう心に誓ったのだ。

復讐に近い、歪んだ動機ではあったが、

ただひたすら己の無力さを克服するためにあれから今まで頑張ってきたと思う。

そうして、実際に私は今の幸せな生活を手に入れた。

それから五分後、世界は本当に変わっていた。

たった五分、十数年がたったの五分で大きく変わる。

――そこには、彼女への興味をすっかり失っている私がいたではないか。

あぁ、やるせない時の流れかな。

あの頃の少女は存在せず、

目の前には今やごく普通の大人の女性となった彼女がいた。

「旅行会社といっても、別に海外に行けるわけじゃないですよ~。

まとまった休みはなかなか取れないし、

お金もないし、みなさんより機会は少ないでしょうね~」

旅行会社に勤めているという彼女の女友達がそんなことを言っていた。

「そうなんだー。俺も海外とか行く気、全然ないね。

言葉分からないし、日本にいた方が友達はいるし、楽しいんじゃないの?

でも、こいつは何故か結構行ってるみたいだよ」

さっきからここぞとばかりにしゃべりまくっていたお調子者の高田が急に私にふってきた。

あわてて私も言葉をつなぐ。

「フランスはもちろん、ドイツに、スイスに、

台湾・香港・ニュージーランド・カナダ・アメリカ・メキシコ。結構行きましたね~」

指を折って律儀に数えつつ、おどおどと私は答える。

「へ~」

みんなしてうらやましそうな、本当はどうでも良さそうな相づちを打っている。

「私、飛行機乗ったことない~。新幹線ぐらいかな~。」

と、彼女が言う。

――これだ。飛行機に乗る乗らないはどうでもいいが、

何だろう、彼女から感じるこの普通さは。

美しい羽が生えていたはずの彼女から聞こえてくる言葉、

しかし今やその言葉に私の琴線が弾かれることがないのだ。

あの頃彼女から発せられていた何か、

私を夢中にさせた何かを目の前の彼女に見つけることができないのだ。

「俺も、俺も!別に飛行機なんて乗るモンじゃないよね~。乗ったことないけどさ~」

また高田が調子を合わせている。全く、よくしゃべる野郎だ。

少し前に、私は重い重い一言を彼女へと投げかけて、初めての会話を交わした。

いつもの顔で話そうとしても緊張を隠せず、心の中で戸惑うばかりだった。

彼女の顔に、あの頃の少女の面影が残っていたからだ。

特別な人と特別な会話をする、そういうものだと思っていた。しかし、しかしだ!

「――白沢さん、翻訳会社に勤めている転石です。あっ、初めまして、転石です」

最初の言葉はお辞儀をしながらのつまらない自己紹介だった。

みっともないが、彼女とその隣の女友達にも名刺を渡す。

受け取ってくれるなら、捨てる時に最低でもあと一回は

私のことを思い出してくれると思ったからだ。

「へぇ~。翻訳のお仕事されている方には初めてお目にかかります~」

それが、彼女が私にかけてくれた、最初の言葉だった。

それから、私はいきなり迷ってしまった。

次の言葉が続かないのだ。何を話せばいいのか、早くも会話が途切れる。

名乗っただけで空白の時間ができてしまった。

「すいませ~ん、コイツ、フランスかぶれだから日本語下手なんです~」

いいタイミングで、高田が助け船を出してくれた。

「フランスかぶれ?フランス語の翻訳されているんですか~?」

女友達のほうがそう尋ねてくる。

「そうです。フランス語で困ったらいつでも言ってください」

「凄いですね~。勉強されたんですか?」

「いやいや、違うんです。親の仕事の都合で、帰国子女ってやつです」

「――だから、話せるのも当然なんですよ、コイツの場合!」

子供の頃にした私の苦労も知らずに、高田が今度は勝手なことを言い切ってくれた。

「え~でもね~立派ですよね~」

彼女が弱々しい声でそんなフォローをしてくれた。

しかし、私の目にはその行動が哀しく映ってしまったのだ。

なんだろう、彼女の仕種や口調がやけに一般的な女性らしい仕草に見えた。

自分が関わり合っている世界の誰かがはっきり否定されることを

見ていられない女性たちが取るような中途半端な慰め方そのものだと思った。

見ず知らずの私を、あの少女が構ってくれるだなんて、

大変光栄なことではあるが、私はそんな曖昧でつまらない行動を取る

彼女を見たいのではなかった。

「はいはい、分かったよ。じゃぁ、母の日に乾杯!」

「はーい、乾杯!」

横から山が訳の分からない乾杯で割り込んできて、話が飛んだ。

そのまま話題は私のことから離れ、彼女を私個人に注目させられる時間は終わった。

「聞いて下さいよー、美恵子ったら面白い母の日のプレゼントをしているんですよー」

女友達がクスクス笑いながら山に話し始める。

「お母さんを観覧車に乗せてあげたんですって!

それがプレゼントって言うんだから、もうこの娘は……」

「いいの!プレゼントは何がいい、って聞いたら『観覧車に乗りたい!』って言うから、

本人のその希望を叶えてあげんたんじゃない!

昨日の母の日当日にはできなかったから、

午前中に西武遊園地に一緒に行って乗せてあげてきました~。

素晴らしい親孝行でしょ?みなさんも昨日はちゃんと母の日しましたか~?」

「いやいや、全然していないねぇ……」

山には少々なじみにくい話題だったようだ。

場を盛り上げるためには茶化すのが一番なのだが、

彼女のその行為は純粋過ぎるので茶化しようがない。

山も言葉に詰まってしまった。

天真爛漫にそんな話をする彼女が嬉しかった。

彼女の優しさと、素敵に歳を重ねてきたということが伝わってくる。

昔この女性に恋をしたことは間違いではなかったと思った。

しかし、私は複雑だった。

人から発せられる空気というものは触れ合った瞬間に大体分かるものだ。

最初の印象とその後の印象でほとんど変わることがない。

私はさっき彼女が席に座り、女友達に口を開いた時からそれを感じ取っていた。

それが何故なのか分からない。

分からないが、とにかく彼女からはごくごく普通の女性の空気しか感じることがないのだ。

普通だという。

あの、特別中の特別中だった少女の空気を私は普通に感じてしまうというのだ。

おかしいと思う、変だと思う。だが、事実は隠せない。

彼女を取り巻く空気が、仕事上で知り合った女性たちから感じる空気と

なんら変わらないものになっているのだ。

高田が自分の仕事のことをペラペラとしゃべり出し、

女友達もそれに合わせてよくしゃべり、毒にもならない会話をみんなで適当に続けた。

彼女も明るくしゃべってくれたし、私と直接話すことも沢山あった。

時間は瞬く間に過ぎていった。

――彼女と話してみて、まず一番に何を感じたか。

何も感じないのだ。何も感じないとは何だ、ごく普通の会話だいうことだ。

あの清らかな女神はどこにいった。本当に彼女本人なのだろうか、

彼女と話してみてあの頃の神々しさをちっとも感じられない。

あの頃は違った。遠くから彼女の姿を見るだけで、少年の心は震えた。

言葉にならない何かが心を大きく揺り動かした。

言葉を交わしたこともない人、しかしそれでもはっきりと感じるものがあった。

何かが、そうだ何かが、あの日の彼女の周りには漂っていた。

そんな彼女に限って、何も感じないだなんてことがあるはずがない。

あの少女に限って、無垢の羽を無くしただなんてことがあるわけがない。

それなのに何なのだ、この私の無感情は!

こんなことがあるのだろうか、十数年間憧れ続けた少女とようやく話す機会が訪れたが、

普通の女性たちと話している感覚と変わらないというのだ。

あぁ、この女性は私にとって特別な人なのだぞ。それが何だ、この普通さは。

こんな不条理なことはない。彼女が変わったのか、それとも私が変わったのか。

十数年の時の流れが、私たちの全てを変えてしまったのか。

青田の家に泊めてもらうつもりだったが、

今日中に西葛西へ帰らなくてはいけなくなったから終電で帰るよ、と言って途中で店を出た。

場にいたたまれなくなっていた。

彼女の目も見ず、ただぶっきらぼうにみんなに別れを告げ、逃げるように私は店を出た。

週末の人波でごったがえすサンロードを駅へと歩き、私は天を仰ぐ。

――誰が悪いのではない。しかし、彼女に対する失望が隠せない。

失望――無論、彼女に非があるわけではない。

あの頃の眩しい少女が、今やごく普通の奇麗な女性になる。

十数年前に溢れんばかりの想いを抱いていた女性に、

今やごく普通の大人となった私の心は少しも揺れない。

今夜、彼女に再会するべきではなかった。

そして、未来永劫もう顔を合わすこともない。

現実は残酷に今のあるがままを映し出す。

世の中には知らなくてもいいことがあると言うが、まさにこれのことだろうか。

もう、今夜のことは思い出さないようにしよう。

昔の美しい思い出は美しいまま、今夜のことは一時の悪夢だと思い込もう。

単なる夢物語ならば、過去に傷をつけずに忘れ去ることも可能だろう。

そうだ、忘れてしまおう。忘れてしまえばいい。

忘れてしまうなら、思い出の美しい少女のままだ。

私は現実を拒否し、思い出を一層愛した。

やはり、あの頃は良かった。今ではなく、あの頃が人生のピークだった。

音楽や思想は綿が水を吸い取るように、どんどん頭の中に入っていった。

輝く恋に身を存分に焦がし、あちこちへ飛ぶように走り回っても身体は疲れを知らず、

仲間たちと損得なしの純粋な時間を共有し、

人生の喜びを全身で掴み、全てを美しいと感じた。

人生は、今ではない。あの頃が人生の核だったのだ。

今では、思い出を温めるだけが人生になった。

思い出は辛いこと、哀しいことを全て消し去り、眩い部分だけを映し出す。

私にとっての人生とは、あの頃だけが本質を捉えていて、

残りの人生では残飯を漁るように、

大したものを掴めないまま適当に過ごさなくてはならないのだ。

なんだ現在というのは!つまらない!下らない!

愛した少女はこの世からいなくなり、過去の記憶に封印された。

生活は惰性に囲まれて出口がない。

きらびやかな過去は一瞬たりとも現在には繰り返さない。

老醜はもう始まり、仲間という仲間とは離れ離れになった。

はや三十、しかしまだ何も手に入れていない自分自身は一体何者だ。

間違いなく幸せだが平凡な家庭と、それなりに充実した毎日しか私にはないのか。

馴れ合いの、少し幸福な、結構満たされた檻に私は自ら足を踏み入れてしまっている。

私の残りの人生とは、そんな中で思い出をかじりながら

せせこましく生きるだけのものなのだろうか。

現在とは、決して過去に勝てないものだろうか。

それにしても、時の流れだ。時の流れ――私は本当にこいつを恐ろしいと思う。

今夜、その威力の一端をまじまじと見せ付けられた。

時の流れにかかれば、世界に一人の少女がどこにでもいるような

ありふれた一女性に姿を変えてしまう。

いや、違うか。きっと彼女が原因ではない。

私の方がすっかり変わってしまったのだ。

彼女の美に変化はなく、私の意識にこそ大きな変化が来ていたのだ。

美しいもの、心打たれるものだけに夢中になっていたあの少年は姿を消し、

今ここには平坦な道を行くただの凡人が生き長らえている。

彼女の純粋さがあの日のままでも、

感じる者の頭が変わってしまえば違う世界に見えるはずだ。

そうだ、私がくだらない人間に成り下がってしまったのだ。

時の流れは、全てを変えてしまう。

今ですらこうだ。さらなる十年の後を考えると、恐ろしくて身震いがする。

人生が恐い。先に進みたくない。

しかし、時の流れよ。遠慮せずに全てを変えてみせろ。

オマエにどこまでも流されながら生き抜く人生だということは、私も覚悟している。

好きなだけ変えてしまえばいい。

どうせ変えるなら以前の姿を思い出させないぐらいまで、とことん変えてしまえ!

こんな賑やかな道を一人で歩くものではない。

サンロードの両脇で固って、楽しそうに話をしている二十歳前後の若者たちを見ていると、

私はそれだけでひがみっぽい気持ちになる。

幸せそうに笑い合っている彼らは、きっと自分の人生に何の引け目もないのだろう。

人生は楽しいものだと、胸を張って言うことができるに違いない。

同じ人間である限り、幸せの上限は似たような程度しかないはずなのに、

私は自分を幸せだと思うことができない。

もしかしたらこの私も彼ら同様、幸せだらけに生きているのかもしれないのだ。

あぁ、駄目だ。考えても答えがない。いつも通り結論が出ない。

いらないことまで考えてしまう私自身が全て悪いのだ。

自分自身に迷ってしまったら、煙草が一番だ。

煙に流して、誤魔化してしまえばいい。

このまま電車に乗ってしまったが最後、

西葛西までずっとこんなことを考えるつまらない時間を過ごすことになってしまうだろう。

嫌だ、そんな苦しい時間は嫌だ。

そのまま駅へ歩いて行く気にはなれず、私は脇道に外れ、

缶コーヒーを飲みながら煙草をふかした。ぼんやりとサンロードの人波を見ていた。

本当に、人間とは何なのだろう。

どうして、毎度毎度同じことをするようにプログラミングされているのだろう。

飲み会しかり、恋しかり、この煙草しかり。

同じことを繰り返すことで、心が落ち着くようになっているのは何故なのだろうか。

凸凹の違いだけで、あとは変わらぬ人間たち。

自分は他人と大して変わらない。他人も自分とほとんど同じだ。

それでは、私という独自の人間が生きる意味が何処にある?

いっそ、誰かが私に宣告してくれればいい。

お前は何者でもない、お前は自分が生きる意味を考える必要などはない、と。

そうすれば、気楽な死を迎えられることだろうに。

この一秒の間に、目の前の道を何人という人が通り過ぎる。

一分間もここにいれば、何十人もの人が私の前を通り過ぎる。

しかし、誰一人として私に関わり合いのある人はいない。

たったの一人も、私に目をくれる人はいない。

同じはずの人間が何十人もいて、しかし全員他人同士なのだ。

この事実にいつも私は不思議を感じる。

――ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

流れに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びていささかもとどまることなし。

方丈記の時代からこんなことが詠まれている。

いや、きっとその前からも同様なのだろう。

そして、この謎を解いた者は未だかつていない。

先人たちが何千年も解けなかったものを、

今さら私ごときが深く考える必要もないのではないか。

私だって子供の頃からずっとこの謎を解こうとしてきたが、

十数年経った今でも全く分からない。

時の流れとは恐ろしいものだ。もう、そう決め付けてしまってもいいだろう。

煙草を挟む指から流れる煙が、私を離れた途端に他人となり、どこかへ消えて行く。

煙草もまた刹那の友であろう。目の前に煙草をかざし、人の群に煙を重ねる。

ほら、同じ存在だ。あぁ、どうしようもない。

空缶入れに缶を投げ込んで、私はまた歩いてみる気になった。

結論なんて出るものではないが、なんとなく考えてなんとなく心が収まった。

人生はこんなものだ、時の流れはこんなものだよ。

さぁ、日常生活に戻ろう。早く家に帰ろう。

そう決めて駅へ向かうためサンロードへ歩き出すと、

これはどうしたことか、見覚えのあるあのシルエットが、

また目の前を通り過ぎたではないか。


急ぎ足で駅の方へと向かう彼女。

さっき永遠の別れを告げたはずのあの初恋の彼女だ。

――奇遇だね。まさかこの道を歩く彼女の姿をまた見るとは思わなかった。

時の流れの皮肉か。時の流れの気まぐれか。

私は思い出す、あの日のサンロードを歩く少女の姿を。

土曜の午後、仲間たちとビリヤードに夢中になってきた帰り道。

脇道からサンロードに入ろうとしていた時、目の前のサンロードを歩く、

制服姿も美しい少女を見つけた。

少年の目には、その少女の周りの空気だけが輝いているのが明らかだった。

少年はやはり遠くから見ているだけで、

少女を現実のものとしては見ることができなかった。

あれから十数年の時が流れた今では、

彼女を取り巻く空気に特別なものを見ることはない。

ただ、良く知った人を街角で見つけたというぐらいにしか、私の心は動かない。

そんな心で終わらせていいものかが分からない。

やはりこのまま終わらせたくは、ない。

もう少しだけこの先を追求したいと思った。

何を望むわけではない。何も期待していない。

ただ、あの日の少女、白沢美恵子という女性が今の自分にとって

どういう意味を持つ人になったのか、

この最後の機会にそれをもう少しだけ知りたいと思ったのだ。

あっという間にその気持ちは膨らみ、私を突き動かす。

また失望しても構わない。もう少しだけ、あと少しだけ――。

幻が歩いて行くから、私も歩いて行く。

手に握り締めた携帯電話をちらちら見ながら、彼女は足を早める。

どうしたのだろう、彼女も終電が近いのだろうか。

そういえば、彼女が今どこに住んでいるのかは知らない。

最も、それは私にとって知らなくてもいい深淵だと思うから知る必要もない。

彼女の歩く足取りの力強さに驚いた。別に急いでいるからではない。

彼女の足が、彼女自身の確かな意志を持って動いていることにびっくりしたのだ。

前回この道で見かけたときはそんなことを全然感じなかった。

流れるように、宙を舞うように見えていた。

しかし、今は違う。彼女は自分の行くべき場所へと自分の意志で向かっている。

当たり前のことだが、私には新鮮だった。彼女も、もう立派な一人の大人になったのだ。

十二年という歳月は彼女にも流れている。

私も彼女も、今はそれぞれの人生がある。

それぞれの帰る場所へと別々に歩いているのだ。

サンロードを通り抜けて、川越駅がすぐそこになった。

そろそろ、彼女と別れの時間が来たようだ。

駅か。人と人との別れにふさわしい場所だ。

ふと、彼女がビルの中に入っていった。ファーストフードの店だ。

閉店の十時ぎりぎりだ、これが急いでいた理由だろうか。

ここで私は西葛西に帰ろう。まさか、店の中まで付いて行くようなことはできない。

ここを最後の場所としよう。

あと一目だけ、外からガラス越しに彼女の姿を一目だけ見て、そして私は行こう。

卒業から十二年、彼女を初めて見てからは十四年も経つのか。

随分と、長い時間だった。

彼女が店に入ってきた。私は遠目に彼女を見つめる。

人気のない店内。それはそうだ、閉店間近で、店員は店じまいを始めている。

彼女はすぐにお目当てを見つけたらしく、入口で立ち止まることなく歩く。

その先には、男性の姿がある。

私の角度からは背中しか見えないが、黒いジャケットの男性がいる。

彼女が、席に近寄る。そして――彼女が、微笑んだ。

――その微笑み。私は時間の狭間を越えた。

その微笑みこそ、私が恋したあの日の少女の微笑みだったのだ。

――衝撃。心に響く鮮烈な衝撃。

さっきの酒席では全く見せなかったその本物の微笑み。

――あぁ、これがこの白沢美恵子という女性の本当の姿だった。

「お待たせ~」

心からの喜びの表情で彼女の口がそう動いたのを見た。

微笑みは、昔と変わらず、女神のそれだった。

踵を返して、私は駅に向かう。

大人になること。時間を重ねるということ。

本当に、この十数年は、長い、長い時間だった――。

西葛西の夜風が気持ちいい。

真子は隣の寝室でかすかな寝息を立てて眠っている。

妨げないように静かに窓を開け放ち、

部屋の電気を落として酔い覚ましの氷水を飲んでいる。

眠ろうと思っていたのに、結局電車の中では眠れなかった。

後から後から、考えることが湯水のように湧き出してきた。

少年の頃は、三十歳になった自分が想像できなかった。

それだけの年齢になれば、すっかり少年の心がなくなっていると決め付けた。

だが、そんなことはなかった。今も私は少年のままだ。

変わったが、変わっていない。

それは彼女も同じ。時の流れで少女は変わる。

そして、彼女自身は何も変わらない。

なんて気持ちのいい風が入ってくるのだろう。

マンションの前の公園から、ベランダを通じて風が流れてくる。

彼女へ最初言葉を投げかけた時から、

彼女を口説こうとする気持ちなどさらさらなかった。

彼女のことが嫌いなわけがない。初恋の人は永遠に好きな人だろう。

興味がなくなっても、好きでないわけがない。

好きなのだ。過去の思い出の人として、いつまでも好きだ。

それなのに、口説こうとする気持ちが全く起きなかった。

電車に乗ってから、それが何故なのかを考えた。

男だろう、私も男だろう。

あの初恋の少女とSEXしたいと考える頭はないが、

口説こうとするのが男としての普通なのではないか。

駅をひとつ進むだけの時間で、簡単に答えが出た。

私は、真子がいるだけでもう充分なのだ。

負け惜しみではない。私は今の幸せをもっと感じてもいいのではないだろうか。

心地の良い西葛西の夜風。真子のいる、西葛西の風。

きれいに洗い流せ、私のつまらない酔いを。

ありふれた生活に突如訪れた劇的な一夜。

夜が明ければ、またいつもの毎日が待っている。

昨夜のことは実感を伴わない夢の出来事になった。

あやふやな幻へと想いを馳せる余裕はなく、

目が覚めれば毎日の現実が私を取り巻いている。

「――昨夜はみんな集まったの?」

「僕の他に五人かな。あまり集まらなかったよ」

朝、キッチンで煎れたてのイングリッシュブレックファーストに

なみなみとミルクを注いでいると、背中に真子が話し掛けてきた。

私は振り向かずに答える。動揺を見抜かれてしまっては二重の損害になり兼ねない。

過去を失い、現実にもヒビが入るだなんて嫌だ。

「森君と山さんと、あとは?」

真子も何人かは会ったことがあるので知っている。

「足利と青田と日高。みんなバトミントン部だった奴等だよ。

なかなか面白かったよ、今度のバーベキューに水風船投げすることになってさぁ……」

「えっ?水風船の投げ合いっこ?好きね~そういうの!」

真子が話を合わせてくれるから、あの昨夜のことでも口にできる。

真子にかかれば昨夜のことも何故か楽しい同窓会だったと話ができる。

寝起きの頭、昨夜の夢物語、いつもと変わらぬ真子の微笑み。

なんだか今朝は駄目だ、よく分からない。

よく分からないけど、普段の流れにずるずると引き込まれてゆく。

これもまた、押し寄せる時の流れに飲み込まれる瞬間なのだろう。

さぁ、考える暇はなく日曜の朝の散歩に出よう。

運動がてら真子と葛西臨海公園に歩きに行って、帰ったら掃除をしなくては。

昼はどこかに美味しいパスタを食べに行こうと話しているから、今朝も大忙しだ。

「さっ、食べ終わったら歩きに行くよ!」

私は陽気に真子を誘ってみた。週末は、こうでなくちゃいけない。

今日は日曜日だから、真子と一緒に過ごす一日だ。

いつものように、私は満たされた時間を妻と過ごすのだ。

天気が良かったので葛西臨海公園へバトミントンのラケットを持って行き、

広い芝生の上でしばらく気持ちの良い汗を流した。

帰ったら掃除と洗濯を二人で分担して終わらせ、

お昼になったのでちょっとだけ奇麗な格好をして駅に向かった。

真子が見つけた銀座の美味しいイタリアンレストランに行ってみよう。

「ねっ、これ見て、前菜に、パスタ・デザート・コーヒーか紅茶までついて、

なんと千四百円だよ~!銀座なのに良心的ですよね~。

見て、見て、このパスタの写真!

このゴルゴンゾーラソースがくっっっさそう~で美味しそう~。

デザート!デザート!!びっくりなことに、なんと三種類の中から選べるんですよ~。

しかもほら、ホームメイドのアイスクリーム添え!

女心を分かっている店でしょう~。

いい?私が二人分のオーダーを選んであげるから……」

聞いているのが苦痛に感じないから不思議だ。

しゃべり続ける真子の口。

とにかく、真子の言う通りにしていれば美味しいものが食べられる。

「……そうだね~。三時のお茶はどこでしたい~?行きたいお店はある~?」

「え~。う~んと、どこかお勧めはあるのかなぁ?」

「じゃぁ、ホテル西洋銀座の地下にしましょうか~。

あそこだったら、絶対に美味しいケーキがある!

ほら、ずいぶん前にセザンヌっていう美味しいの食べたでしょう~?

今日もセザンヌでもいいし、でも、あそこなら絶対に他にも美味しいのがある。

私はね~ティラミスにやっぱりアイスクリームを添えてもらって、

大丈夫、一流ホテルだからそのぐらいのワガママはちゃんと聞いてくれるの!

それでね、ミルクティーに……」

話が長いので途中で割愛するが、とにかく真子はご機嫌らしく、ひたすら話し続けてくれた。

私は話をなんとか落ち込ませないようにしようと、

とにかく真子にしゃべらせるように会話を振ってみる。

なんだろう、あのささやかな酒席とは違い、このささやかなお出かけは随分と楽しいのだ。

真子はまたいい店を選んだ。ランチが最高なら、その後まで楽しく過ごすことができる。

デパートをぶらついていて、探していたストッキングがあったと騒いでいたし、

ぴったりサイズのブーツがあったと小躍りしていた。

真子は凄い情熱をみせてショッピングを続けるが、

二時間も歩き続けるとさすがに私も疲れてしまった。

私の足取りが重くなったのを目ざとく察知したのか、

真子は四丁目交差点からホテル西洋銀座まで真っ直ぐに歩き、

行きに話していた店でお茶をしようと言う。

ここでも真子は、昼に食べたパスタとニョッキの味について散々評価をし、

批評をし、楽しそうにしてくれた。

こういう私のような男性が苦手とする話題で真子が一人盛り上がって楽しんでいる姿は、

私にとって決して不愉快なものではない。

真子の楽しそうな姿を見ていると、平日の平凡な仕事ですり減らされた私の心も、

じわじわと満たされてくるからだ。

話の途中で、真子が楽しそうにトイレへ向かった。

それにしても――。

私は、幸せなんだな。今が、幸せなんだな。

真子がいる、それだけで私の一日は意味を持っているような気がしてならない。

さらに言えば、これは一日だけの話ではない。

真子がいるだけで、無意味な人生ではないと思うことができるのだ。

目の前に真子がいないと、昨夜のことに考えが及んでしまいそうになる。

私は今晩借りる映画は何にするかな、と無理矢理考えて、今に集中しようとする。

でも、これぐらいは思ってもいいだろう。

彼女も、やはり私のように幸せな今日を誰かと迎えているに違いない。

昨夜の微笑みが、頭の中をかすめる。あの微笑ならば、安心だ。

いやいや!このティラミスの、舌に乗せた途端に溶けてしまうかのようなスムーズさと、

はっきりした卵の味、それに相性の良いバニラアイスと一緒に食べるからこその感動は

なかなかのものだぞ、と自分に言い聞かせて、私は真子を待つ。

せっかくの楽しい日曜日だから、今は真子とのことに専念したい。

今は真子だけが私の世界だ。

真子が戻ってくる。入口から入ってくるのが遠目に見える。

私はさっきまでの自分に戻って真子を待つ。

真子がゆっくりと近寄って来て、そして、私ににっこりと微笑んだ。

――私は分かったのだと思う。真子のその微笑みは、まさに女神のそれだった。

十数年前、初恋の少女に見ていた微笑み、昨夜、最後に一瞬だけ見た微笑み。

そして今、私の真子が見せた微笑み。

どれも、本物の喜びがこもった、女神の微笑だった。

私は、愛する妻の女神の微笑みに、最高の感謝の気持ちを贈った。

そうだ、私には――真子がいる。

変わり映えのない一週間が始まった。

昼間は会社に貢献する企業人として、

社会に貢献する社会人としてなかなか満足な仕事をし、

家に帰れば妻の幸せに貢献する家庭人としてかなり素敵な時間を過ごす。

週末には妻と二人で出かけ、広尾や代官山のトラットリアで美味しいイタリアンランチを楽しみ、

映画でも見れば、妻の満足そうな笑顔、まぁそれ以上幸せな一日はない。

そんな毎日に、あの夜の影響など微塵もない。

普段の毎日は現在の色に染まっていて、過去の出来事は遠い他人事に見える。

今日という一日にあるべきなのは、今の状況を立派に生き抜くための能力だ。

その能力を備えた私が過ごす今の毎日は、とても満たされていると思う。

胸に現在の大きな幸せを抱き、

そして過去と未来への少々の不思議を抱え、毎日が過ぎて行く。

そんな生活に不満はなく、やはり私は幸せなのだろう。

――そんな日々を送る中で、私はついに私なりの結論に至った。

あぁ、また間違っていた。また思い違いをしていた。

何度も何度も、ため息が出る。

断じて、あの頃が最高などではなかった。

この満たされた現在、これ以上何ひとつ望むべくもない生活。

満たし、満たされ、満ちている。

そうだ、実に分かりづらく、実感はないのだが、

今この瞬間が私の最高のステージなのだ。

私はこの三十年の中で様々な経験をし、

色々な感情と知り合い、今までを生きてきた。

過去に流した汗や涙のひとつひとつが

現在の糧となり、礎となり、今ここに私はいる。

今までにあった無数の分岐点、ひとつでも違った道を選択していればこの現在はない。

そう考えれば、今こうして触れ合っている人生がいよいよ眩しく見えてくるではないか。

そうだ、時の流れが奇跡というならば、この私自身が奇跡だ。

流れた時間の軌跡が奇跡に見えるのと同様に、

時を経て今ここにいる私自身が奇跡の存在なのだ!

誰もが、今が奇跡だ。それぞれの人生、様々な出来事があり、今のその人がいる。

そこに思い当たった時、この世の中は奇跡に奇跡が絡み合ってできているのだと知った。

人生、そんなに簡単なものではない。そんなに甘く見てはいけない。

もっともっと世界を重く見よう。

毎日は惰性でできているなどとは、とんでもない思い違いだ。

全ては奇跡、この世の中は奇跡の集まりだ。

あの頃の少女の思い出は、昔と何も変わらず愛している。

そしてなんだか今の私なら、遠くからではあるが、

大人の女性になった今の彼女のことも愛し続けられると思う。

過去も現在も、そしてこれからも、少女のことを愛し続けられると思う。

真子を愛する感情とは別のところで、見守っている。

時の流れに日々は変わってゆく。

しかし、美しい思い出だけは時の流れの力をもってしても変えることはできない。

過去に得てきた宝物は、間違いなく私だけのものだ。

時の流れの影響を受けないものがそこにあった。

私は、子供の頃から作家であるところの自分自身ばかりを夢見てきた。

一体それは何だったのだろう。

どうやら、それはあくまで私の人生における

成長の一過程であって、人生の意味そのものではなかった。

昔は、作家という特別な資格を手に入れなくては

生きている価値がないとさえはっきり思っていた。

今は、作家になりたいという夢などどうでも良くなった。

生まれたからには、もっと純粋な己の人間的完成を目指すことに今は意味を感じている。

閉ざされていた私の世界は、これで一気に開かれた。

妻を愛し、今の仕事を愛し、毎日の生活を愛する。

過去を愛し、現在を愛し、どんな未来だろうとも愛することができる気がする。

毎日が偉大な奇跡、全てが奇跡、奇跡の連続。

今日をなんとか生き抜く、それだけで今日という一日に価値はある。

一日は、人生は、奇跡に奇跡が重なってつながっているもの。

そんな人生に満ち足りぬものなど、元々なかったのだ。

さぁ、歩き出すぞ。何も恐れるものなどない。

私は奇跡のような人間、今が栄光の時だ。

時の流れの恐ろしさなど恐れるに足りず!

私はただ漠然と生きているのではない。

過去に出会った全ての素敵な出来事、全ての歪んだ出来事があり、

清濁どちらも飲み込んだところで、今の自分がいる。

そういった全ての背景を背負った上で、今を生きなくてはいけない。

喜びも哀しみも、どこまで行っても存在するもの。

どちらか片方だけということはない。今を壊すのは一瞬でできる。

どうしてもさみしく見えがちな今を見限るのもいいが、

今というのは全ての過去を背負った上にある今だ、奇跡の今だ、

与えられた今を大事にしようではないか。

時の流れの恐ろしさなど恐れるに足りず、私はこの奇跡を重く思う。




私の人生ベスト3写真

火おんどり

夜闇の火祭り、ピントも炎も人の表情も最高な、奇跡の一枚

9年経ってもこれを超える写真が撮れない...

ペンサコーラビーチ(フロリダ州)

冬の海辺、フラットな光

スローシャッター30秒、非現実の世界に

いろは松の夜桜

彦根城の水堀、桜リフレクション

桜満開、微風、深夜の無人を狙って撮影